九聖人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 07:44 UTC 版)
九聖人が具体的にだれを指すのかは、伝承により若干異なるが、『ババッド・タナハ・ジャーウィー』(Babad Tanah Jawi)に載せられている一般的なものをここに挙げる。 マウラナ・マリク・イブラヒム(Maulana Malik Ibrahim ?-1419)ワリ・ソンゴの1番目に挙げられるのが、9人のうち最も早い時期にジャワに来たマウラナ・マリク・イブラヒムである。ペルシアの出身で、1404年にジャワに来た。ジャワに来る以前にチャンパ王国に13年間滞在し、そこの王女と結婚しアフマドとアリーの2人の息子を儲けたとされる。アフマドは後述するスナン・アンペルである。アリーはサイード・アリ・ムルタダ(Sayid Ali Murtadha)の名で知られる。マリク・イブラヒムは、ジャワに来てからは雑貨店を営むかたわら、病人の世話をし、プサントレンというイスラーム学校を創立した。この学校はジャワで最初のイスラーム学校である。彼はまた、農民に新しい技術を教えている。1419年に死去し、墓はグレシックにある。それ故、スナン・グレシック(Sunan Gresik)とも呼ばれている。ここで注目すべき点は、今までのヒンドゥー、仏教が社会の上層部のみに広まっていたのに対し、マリク・イブラヒムは、一般の人々の間に入り、学校を開き、病を癒すという社会活動を行っていることである。1つの伝承には、ヒンドゥーからアウトカーストとされた人も受け入れたとある。 スナン・アンペル(英語版)(Sunan Ampel 1401-1481)2番目に挙げられているスナン・アンペルは、1401年にチャンパで生まれ、1481年にドゥマク王国で死んでいる。彼は、ワリ・ソンゴの中心と目されている。というのも、1番目のマリク・イブラヒムの息子であり、4番目のスナン・ボナンと5番目のスナン・ドゥラジャットの父であり、さらに3番目のスナン・ギリの従兄弟であり義理の父に当たるからである。その上、6番目のスナン・クドゥスの祖父に当たる。つまり、九聖人のうち6人が血縁関係にあるのである。彼はまた、ドゥマク王国のスルタン・ラーデン・パタハ(インドネシア語版)(Raden Patah)の教師でもあった。 スナン・ギリ(英語版)(Sunan Giri 1442-) スナン・ボナン(英語版)(Sunan Bonang 1465-1525) スナン・ドゥラジャット(英語版)(Sunan Drajat 1470-?)4番目のスナン・ボナンと5番目のスナン・ドゥラジャトは2番目のスナン・アンペルの子であるが、彼らはジャワのオーケストラであるガムランに合う歌を作っている。この歌にはイスラームの教えが歌い込まれている。 スナン・クドゥス(英語版)(Sunan Kudus ?-1550)6番目のスナン・クドゥスは、人形劇(ワヤン)のワヤン・ゴレッ(Wayang Golek)の創始者であると考えられている。 スナン・カリジャガ(英語版)(Sunan Kalijaga 1460-?)7番目のスナン・カリジャガは、生粋のジャワ人であり、4番目のスナン・ボナンの弟子になる。彼の父はマジャパヒト王国の高官とされ、2つのモスク(チレボン・モスク、ドゥマク・モスク)を建設したといわれる。彼の信仰と教えは、より神秘主義的であったとされる。それ故か、ワヤン・クリとガムランを使ってイスラームの精神を教えている。 スナン・ムリア(英語版)(Sunan Muria) スナン・グヌンジャーティー(英語版)(Sunan Gunung Jati 1448-1580) このように九聖人は、イスラームを教えながら社会活動をし、さらにジャワの伝統音楽や芸能を布教に活用していた。10番目以降の聖人達は、『ババッド・タナハ・ジャーウィー』に九聖人と数えられている人達である。これ以外に、以下の者も九聖人と見做されることがある。 スナン・ンガンペル・デンタ(Sunan Ngampel-Denta) スナン・シティジュナル(Sunan Sitijenar) スナン・ワリラナン(Sunan Walilanang) スナン・バヤット(Sunan Bayat) スナン・ングドゥン(Sunan Ngudung)
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