主導者リエルの台頭
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8月の終わりに、リエルはこの測量調査を弾劾する演説を行い、1869年10月11日になるとリエルを含むメティの集団によってこの調査は妨害を受けた。この集団は10月16日に「メティ民族委員会("Metis National Committee")」として組織化され、リエルは事務局長に、そしてジョン・ブルースが委員長に就任した。 ハドソン湾会社の影響下にあったアシニボイン族評議会が一連の行動に対し釈明を求めると、リエルは、連邦が権力の名の下に行うあらゆる企てに対し、連邦政府がメティとその内容について交渉を行った後でなければ、徹底的に異議を唱える旨を宣言した。それにもかかわらず、二カ国語使用者でないウィリアム・マクドゥーガルが副総督に指名され、11月2日に当該居留地に着任しようと試みた。マクドゥーガルの一行は米国国境近くで引き返すことを余儀なくされ、同日、リエル率いるメティの集団は無血でギャリー砦(後のウィニペグ近郊にあったハドソン湾会社の交易所)を占拠した。 11月6日にリエルは今後の方針について議論する会議の席上にメティの代表者たちと並んで英語使用者たちを招き、12月1日にはこの会議に対し団結を維持するために必要であった権利義務一覧(list of right)を提案した。居留地の多数はメティの視点に立った提案を受諾したが、連邦に組する急進的少数派が、反対の立場を取り始めた。この少数派はジョン・クリスチャン・シュルツ、チャールズ・メイアー、デニス大佐及び余り気乗りしなかったといわれるチャールズ・ボールトン少佐らによって主導され、ゆるやかにカナダ党と呼ばれる集団を形成した。マクドゥーガル大臣はデニス大佐に武装兵からなる分遣隊の召集権限を与えることによって自らの権勢を振るおうと試みたが、英語を使用する移住者達の大多数はこの召集には応じなかった。しかし、シュルツは50人ほどの志願者を集め、自分の家や店舗の防備を固めた。リエルはシュルツの家を包囲することを命じ、多勢に無勢のシュルツ家の守備兵たちは間もなく降伏するとともにギャリー砦に収監された。
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