中華人民共和国への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:12 UTC 版)
「西園寺公一」の記事における「中華人民共和国への移住」の解説
この間、1957年(昭和32年)に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる。日本に帰国してから間もなく家族を連れて中華人民共和国へ移住し、中国共産党から「日中文化交流協会常務理事」や「アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長」の肩書と、500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの給与を与えられることになり、同政府の意向を受けて北京にて国交成立前の日中間の「民間外交」を行った。 1958年(昭和33年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の1967年(昭和42年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」、「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。なお「北京空港事件」の現場にも居合わせた。
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