中継における戊辰戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:30 UTC 版)
「中継 (村上市)」の記事における「中継における戊辰戦争」の解説
戊辰戦争の記録は、上述した中継村庄屋の東海林久四郎家の「年代記」に農民側から見た戊辰戦争の記録として残っている。そこには、防衛のため庄内から中条へ出動する酒井庄太郎率いる庄内軍の様子、村上城落城により庄内へ落ちる人々の惨めな様子が記録されていた。1868年(慶応4年)5月に長岡城が落城。北上する新政府軍が7月下旬に軍艦で来て網代浜(新発田市)に上陸し、新潟も陥落。庄内藩を含む各藩は兵を引いた。舞台は、村上・山北に移った。しかし、戦う前から村上城内では和戦両論で意見が分かれるような状態だったため、8月11日には落城。翌12日午前10時ごろ落城した村上城から庄内軍と共に庄内へ落ちる人々が中継村を通り、午後4時ごろになると大雨が降り出したが昼夜問わず翌日の夕暮れまで人々が中継を通っていった。「年代記」には、その様子を目も当てられない姿だったと書かれていた。その後、山北の小俣・雷・中浜を舞台に激しい戦いが繰り広げられ、新政府軍の進撃は止まらず8月17日に庄内藩が降伏し山北戦争の幕は閉じた。 1869年(明治2年)、政府が関所や口留番所を廃止し、陸上交通の制度を宿駅制から伝馬所に変わり、人や物を運搬させた。しかし、民間の物流が活発になったため、1872年(明治5年)官制の伝馬所を廃止し、民間の駅伝組合が役割を担うようになった。出羽街道が通る宿場村の大沢の史料には、1872年(明治5年)伝馬所廃止直前の陸上交通の様子が残されている。そこには、中継駅を含む5つの駅の戸数・道のり・御定賃銭・助郷などが記録されている。中継駅の「道のり」は中継-小俣の35丁(約3.8km)だったため、他の4駅の御定賃銭より高かった。また定助郷はなく、通行が多い時は小俣駅同様、大代・雷・山熊田に助郷を頼んでいた。
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