中研院の復興
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国共内戦の結果、1949年に国民党政府は大陸の統治権を失い、歴史語言研究所の全機関と数学研究所の一部蔵書が台北に搬出され、桃園県楊梅駅倉庫に保管された。その他の研究所は大陸に残され、後日発足した中国科学院の母体となった。人員では多くの院士と第1回院士会議で選出された第三期評議員32人もまた大陸に残留したため、台湾では中研院を運営する法定定員に満たないため、運営は実質上停止状態に陥った。こうした困難な状況下であっても1954年、院長である朱家驊などの尽力により台北市南港区の現所在地に中研院が建築された。 1957年、台湾で登録した院士を実質の構成員とする総統令により法定定員の問題を解決し、4月2日に台湾に於いて第2回院士会議を、4月3日に第3期評議会第1回会議を開催した。そして首同年12月、胡適を朱家驊の後任院長に選出し、台湾での中研院復興に尽力した。その後王世杰、銭思亮、呉大猷(中国語版)の歴代院長の尽力により、今日の規模が確立された。 1994年、アメリカで研究生活を送っていた李遠哲が院長に就任すると、中研院の国際化を積極的に推進し、12年の任期中に海外から研究者を招聘し後生の指導に当らせ、また海外で活躍する研究者の帰国を推進する等、国際的に通用する研究機関への発展を実現している。
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