中国を追放され、日本へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 02:17 UTC 版)
「ジャン・バルビエ」の記事における「中国を追放され、日本へ」の解説
1948年(昭和23年)1月16日、マルセイユから貨客船「アンドレ・レボン号」に乗船し香港経由で中国へ向けて出発、1948年(昭和23年)2月に重慶に到着した。重慶到着後は中国語を学び、同年10月からは神学校にてラテン語を教えた。1949年(昭和24年)6月、重慶教区罎棕の主任司祭となり布教活動を開始したが、罎棕の司祭館が強盗によって略奪されたため、新場に移住し、同年10月には涪陵へ移った。 1950年(昭和25年)11月28日から29日の夜にかけて小教区は紅軍に占領され、中国共産党の支配下となり布教活動は困難を極めた。バルビエ自身も人民裁判を受け、1951年(昭和26年)2月に国外退去を命ぜられる。同年7月には重慶で監禁状態に陥り、毛沢東思想を強制的に学習させられた後、同年11月には中国から追放され香港に到着する。1952年(昭和27年)2月29日、香港から米の運搬船に乗船し日本へ向けて出発、横須賀港に到着後、パリ外国宣教会の静岡本部に身を寄せ日本語を学んだ。1953年(昭和28年)の秋には助任司祭として追手町教会に赴任、1955年(昭和29年)には助任司祭として浜松教会に転任した。
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