中先代の乱と足利一族との対立とは? わかりやすく解説

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中先代の乱と足利一族との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)

新田義貞」の記事における「中先代の乱と足利一族との対立」の解説

建武2年1335年7月信濃国北条氏残党高時遺児北条時行擁立し鎌倉占領する中先代の乱が起こる。この戦乱の中で新田傍流であり義貞と共に倒幕功績のあった岩松経家戦死した。他、新田一族鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利与党として合戦参戦し戦死している。新田足利政争中央行われている折、新田一族から4人もの武士足利与党として戦い死んだことは、新田一族分裂していたことを暗示している。その後大舘鳥山一族は、完全に義貞と決別する。また戦死した岩松経家至っては、後継者代官)に尊氏から所領交付され、それによって岩松氏足利主従の関係となった元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子損なった新田足利対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。とはいえ、義貞は時行が鎌倉占拠してから足利軍撃退されるまでの中、何もしていなかったわけではない。義貞の配下である堀口貞政が、時行蜂起に際して背後からの攻撃計画していた。しかし、彼が越後武士達に出兵催促した時は既に時行は敗れて敗走する最中であった。 時行蜂起対し足利尊氏後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐向かい鎌倉本拠置いて武家政権既成事実化をはじめる。更に、尊氏新田一族やその与党所領を、時行撃退武功のあった自分与党への褒美として分給した。義貞が国司担当した上野国守護職上杉憲房与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏本領である上野新田荘までもが、三浦高継与えられた。 鎮圧後尊氏信濃北条残党蠢動しているという口実設けて朝廷帰京命令に従わなかった。さらに、北条残党軒並み鎮圧されると、今度は「義貞と公家達が自分讒訴している」と主張し鎌倉になお留まった。

※この「中先代の乱と足利一族との対立」の解説は、「新田義貞」の解説の一部です。
「中先代の乱と足利一族との対立」を含む「新田義貞」の記事については、「新田義貞」の概要を参照ください。

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