中先代の乱と足利一族との対立
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「新田義貞」の記事における「中先代の乱と足利一族との対立」の解説
建武2年(1335年)7月、信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起こる。この戦乱の中で新田の傍流であり義貞と共に倒幕に功績のあった岩松経家が戦死した。他、新田一族の鳥山氏盛、宗兼、氏綱、そして大舘時成の4人が、足利の与党として合戦に参戦し戦死している。新田と足利の政争が中央で行われている折、新田一族から4人もの武士が足利の与党として戦い死んだことは、新田一族が分裂していたことを暗示している。その後大舘、鳥山一族は、完全に義貞と決別する。また戦死した岩松経家に至っては、後継者(代官)に尊氏から所領が交付され、それによって岩松氏は足利と主従の関係となった。元より足利寄りであった岩松氏だが、完全に足利氏の傘下となったことで、義貞は新田氏総領としての面子を損なった。新田と足利の対立は、これらの要素によって一層顕在化してゆくこととなる。とはいえ、義貞は時行が鎌倉を占拠してから足利軍に撃退されるまでの中、何もしていなかったわけではない。義貞の配下である堀口貞政が、時行蜂起に際して、背後からの攻撃を計画していた。しかし、彼が越後の武士達に出兵を催促した時は既に時行は敗れて敗走する最中であった。 時行蜂起に対し、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。更に、尊氏は新田一族やその与党の所領を、時行撃退に武功のあった自分の与党への褒美として分給した。義貞が国司を担当した上野国の守護職が上杉憲房に与えられたほか、『宇都宮文書』によると、新田氏の本領である上野新田荘までもが、三浦高継に与えられた。 鎮圧後、尊氏は信濃で北条の残党が蠢動しているという口実を設けて、朝廷の帰京命令に従わなかった。さらに、北条の残党が軒並み鎮圧されると、今度は「義貞と公家達が自分を讒訴している」と主張し、鎌倉になお留まった。
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