不通大名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 04:01 UTC 版)
江戸時代、意図して互いに交流をしない大名同士のこと。江戸城内で会っても会釈も挨拶も交わさないとされる。 家祖・蜂須賀正勝の娘糸姫(家政の異母妹)は福岡藩初代藩主・黒田長政(黒田孝高の子)の正室。糸姫と長政の間には娘・菊(井上庸名室)もいたが、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))の前に離縁され、実家の阿波国に返される。これは長政の継室として家康の養女栄姫(保科正直の娘)が嫁ぐためである。この糸姫との離縁が、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年にわたる「不通大名」のきっかけとなった。 蜂須賀・黒田両家は享保12年(1727年)、蜂須賀綱矩・黒田宣政の代に、陸奥守山藩主松平頼貞のとりなしで和解した。 最期の藩主蜂須賀茂韶の孫・蜂須賀年子著『大名華族』(1957年、三笠書房。徳島新聞連載)には「黒田家から教わった『火伏せのまじない札』」の塗り込められた『火伏せの板戸』の話が10代藩主・蜂須賀重喜の頃の伝承として出てくる。これによると、蜂須賀家は「江戸時代初期に黒田家からまじない札を教わった」とある。 豊臣秀吉を祀る豊国神社の再建は、明治期に黒田長成と蜂須賀茂韶が中心になって行われた。また、長成の子の黒田長禮と茂韶の孫の蜂須賀正氏が共に鳥類学者であった縁で両家は親しくした。
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