下野宇都宮氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 18:27 UTC 版)
15世紀末、下野国では下野国守護の宇都宮成綱は室町時代に起こった小栗満重の乱、永享の乱、享徳の乱などの争いで没落した下野宇都宮氏を立て直すために積極的に周辺地域を侵攻し、勢力を拡大。また、外交も巧みに活用し、古河公方足利政氏の子高基に娘の瑞雲院を嫁がせ、姉の玉隣慶珎大姉を結城氏の結城政朝に嫁がせ、また、初代古河公方足利成氏の孫娘である上杉顕実の娘を自らの妻としたりなど、周辺勢力間で有利になろうとしていた。 父・宇都宮正綱の代に自立的だった塩谷氏、笠間氏、上三川氏、壬生氏などの宇都宮一族が従属性を強め、宇都宮一族の庶流や芳賀氏、益子氏などが直臣化している。これによって宇都宮成綱の時代には宇都宮一族と多くの家臣団で構成される宇都宮家中が成立した。成立当初、宇都宮家中で最も影響力を及ぼしていたのは芳賀氏と武茂氏であり、武茂氏が芳賀氏との政争に敗北すると、芳賀氏の政治の専横が始まった。 永正3年(1506年)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、成綱は勢力の拡大を図り、古河公方家の争いに介入した。この間に足利高基は宇都宮に逃れ義父である宇都宮成綱のもとに身を寄せていた。古河公方家の争いで、成綱は婿である高基を支持したが、政治を専横していた芳賀氏の芳賀高勝は、足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱。かつて享徳の乱などで起きてしまった家中の分裂が再び起ころうとしていた。宇都宮成綱はそれを恐れ、芳賀高勝と対立。家中の完全掌握を狙った。芳賀高勝が成綱の器量を恐れ、成綱の嫡男宇都宮忠綱を擁立し、成綱を強引に隠居に追い込もうと謀った。そこで成綱は忠綱に家督を相続させ、隠居する。また、同時期に成綱は弟の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせていた。また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。隠居後も成綱が実質的な当主であり、芳賀高勝による忠綱擁立と成綱隠居の真相は、実は宇都宮成綱による家中の完全掌握を狙った謀略の1つであった。その最後の手段で、永正9年(1512年) 、成綱は芳賀高勝を殺害し、宇都宮錯乱が勃発。芳賀氏与党は成綱に激しく抵抗するが、2年後の永正11年(1514年)7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏は宇都宮成綱を頂点とする支配体制に取り込まれた。しかし、それと同時に芳賀氏を中心とする武士団・清党も大きく弱体化してしまった。
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