芳賀高勝との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 00:05 UTC 版)
「永正の内訌 (下野宇都宮氏)」の記事における「芳賀高勝との対立」の解説
明応年間に芳賀景高が嫡子の芳賀高勝に家督を譲って隠退した。芳賀高勝は傲慢な振る舞いを行ったために当主である宇都宮成綱との間に確執が生じた。永正3年(1506年)で宇都宮成綱が娘婿の足利高基の古河公方擁立を企てるが、芳賀高勝は、古河公方足利政氏を支持し、小山氏などと連携し、当主である成綱と対立する。 永正8年頃(1511年)、成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展する。この際に成綱は高勝の計略によって嫡子の宇都宮忠綱が擁立され、隠居せざるを得なくなったが、隠居後も宇都宮成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。また、成綱はこの間に弟 の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく父・成綱の弟 の兼綱も武茂氏の家督を継承している。成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、成綱による家中の完全掌握を狙った計略の1つであった。
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