下山大工の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:10 UTC 版)
下山大工の活動は広範囲において見られ、江戸芝(東京都港区白金)の白金御殿には宝永元年(1704年)の棟札が残されているほか、駿府城(静岡県静岡市葵区)の城内普請も手がけている。 甲斐国内では甲斐善光寺の山門(国の重要文化財、明和4年・1767年)、同寺本堂(寛政8年・1796年)、甲州市の諏訪神社本殿(寛政5年・1793年、県指定文化財)、焼失した金櫻神社楽殿(享和2年・1802年)など、装飾彫刻を特徴とする建築を数多く手がけている。 山梨県内に残存する棟札767枚を集成した山梨県史資料叢書『山梨県棟札調査報告書』の検討によれば、下山大工の活動は甲斐国内でにおいては国中地方中心部で顕著とされる。 国中地方では17世紀まで甲府町方大工の活動が主流であったが、甲斐一円が幕府直轄領化された18世紀以降には下山大工が国中へ進出し、甲府町方大工を凌駕するに至る。特に甲斐善光寺の造営においては近世初頭の寺内大工が甲府町方大工に圧迫され、宝暦4年(1754年)の火災後の再興事業を契機に下山大工が出現している(甲斐善光寺における大工の変遷は棟札資料のほか『甲斐善光寺文書』に拠る)。 一方、本拠である河内地方においては下山大工の棟札は少なく、時系列的に減少傾向にあることが指摘されている。一方、身延大工の久遠寺造営は依然として堅持され、下山大工以外の在方大工の成長も見られ、18世紀以降には下山大工は地元よりも国中を中心とし広域的範囲に活動を移していった点が指摘される。 甲斐東部の郡内領においては谷村藩時代に領内が13区の「細工場」に区分され、それぞれの区域を統率する細工場棟梁と、それをまとめる御役大棟梁が存在し郡内大工仲間を組織していた。彼らは他領大工の進出を阻止していたため、下山大工の進出は見られない。
※この「下山大工の活動」の解説は、「下山大工」の解説の一部です。
「下山大工の活動」を含む「下山大工」の記事については、「下山大工」の概要を参照ください。
- 下山大工の活動のページへのリンク