下宮の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:25 UTC 版)
「冨士山下宮小室浅間神社」の記事における「下宮の由来」の解説
富士山に対する「下宮」であり、具体的な上宮は存在しない。 なぜ下宮と呼ばれるのかについては諸説ある。 元々単に「宮」と呼称されていたが、上吉田の諏訪ノ森にある諏訪神社境内に新たに祀られた北口本宮冨士浅間神社等、各村々で浅間大神を祀り始めたため区別する必要から、富士の北麓では古くから富士山の方角を上と呼ぶ為、他の浅間神社より富士山の下手に在る宮として「下宮」と呼称されるようになった。 元々単に「宮」と呼称されていたが、昔から河口湖の人々が富士吉田方面を下(しも)と呼んでいる為、河口浅間神社と比較して「下宮」と呼ばれるようになった。 富士山二合目にある小室浅間神社(現・冨士御室浅間神社旧本宮)を「上宮」とし、それに対する呼称「里宮」ともいわれた。ただこの説は広く流布しているが俗説で、以下の点から現在否定されている。両社は流鏑馬を含め由緒由来が異なる。 「甲斐国志」に富士河口湖町勝山には小室浅間神社里宮の記述があるのに対し、下宮浅間には小室浅間神社との関連つける記述が一切ない。 二合目の小室浅間神社社地を富士河口湖町勝山が飛び地として問題なく得た。 二合目の社殿を富士河口湖勝山の里宮境内に移築した。 二合目小室浅間神社との関連が立証されず富士山世界文化遺産の構成候補から外れた。(富士講による富士山信仰というよりも、産土・氏神・鎮守的な要素、生活に根差した富士山信仰が強く登録にあたり吉田・船津口登山道の一環として採用できなかった) 同富士吉田市内大明見の阿曽谷宮守神社が同時期に同じ社名「小室浅間神社」に改称した。 流鏑馬祭を共同で執り行っていたと伝わるが、「勝山記・妙法寺記」などから途絶える明治までにも富士河口湖勝山の流鏑馬に「馬蹄占」「占い」をしていた記録・記述がない。 流鏑馬祭を行っていた場所が「二合目小室浅間神社近くの騮ヶ馬場」と3の説にあるが、実際は「中の茶屋の近くにあった騮ヶ馬場」であり場所が大きく違い、騮ヶ馬場の場所は二合目小室浅間神社と関係がない事。 流鏑馬は富士北麓全域の各神社・村々合同で行われており、騮ヶ馬場以降、長馬場と時代が下るにつれ、それぞれの地域に分散化していることが分かってきている。 下述にあるが近代「下浅間」と「下宮浅間」が混同されている。
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