上院譴責決議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:45 UTC 版)
「ジョセフ・マッカーシー」の記事における「上院譴責決議」の解説
マッカーシーはその後も、アメリカ陸軍を追及する委員会において、コーンとともに陸軍内の「共産主義シンパ」の浸透を許したと、アメリカ軍の上層部を告発したが、6月9日に全米へ中継された公聴会では、マッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚問された陸軍側弁護士のジョセフ・ウェルチ(英語版)から、逆に告発の内容の信憑性の低さを指摘された上に終いには、この様に叱責されるお粗末さだった。 君、ちょっと話を止めて良いかね?……もう沢山だ。君には品位というものが無いのかね? — ジョセフ・ウェルチ 全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落の象徴として多く流されることになる。 さらにその後、共和党のラルフ・フランダース上院議員が、1954年6月11日にマッカーシーに対する譴責決議案を発議し、アーサー・V・ワトキンス上院議員率いる委員会が組織され、マッカーシーに対する調査を開始した。その後、上院は1954年12月2日に、65対22でマッカーシーを「上院の品位を損ね、それへの批判を生む行動をした」とした譴責決議を採択した。 マッカーシーの決定的な没落の原因が、一連の陸軍への調査と、その後のマローの番組であることは確かであるとしても、アメリカ合衆国上院の何人かの議員がマッカーシーに対し、1953年のだいぶ前から反対していた事は注目する価値がある。一つの例はマーガレット・チェイス・スミス(英語版)であり、メイン州選出で当時の米上院では、唯一の女性議員だったスミスは、1950年6月1日の「良心の宣言」の中で、マッカーシーを名指しはしなかったものの(それは上院のルールにより要求されていた)マッカーシーのやり方を非難している。6人の上院議員の同僚がスミスに加わっている。
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