三浦謹之助と天皇家
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明治天皇は1912年(明治45年)7月1日東京帝国大学の卒業式に出席したが、気分は優れなかった。侍医では対応しきれなくなり、7月20日、東京大学の青山胤通と三浦謹之助が診察した。聴診はある将軍から拒否されたが、「尿毒症」の診断で、酸素吸入、28日にはカンフル、食塩水の注射などが始まった。これは皇后と皇太子の許可による。看護婦は勲五等以上でないと宮中に入れず、看護の経験のない女官が介護した。7月30日、天皇は崩御した。 1920年(大正9年)3月26日、三浦は大正天皇の診断書を提出した。「ご幼小時の脳膜炎のため、故障ある脳に影響し、心身の緊張を要する儀式の場合、身体の傾斜をきたし、平衡が保てない」。翌年、皇太子裕仁親王(昭和天皇)は摂政となった。大正天皇の病気の末期、葉山の用邸に泊りこんで治療にあたった。 東宮御用掛時代の1921年(大正10年)、皇太子裕仁親王の欧州訪問に侍医として随行している。皇太子に君主としての仕事はストレスが多いので趣味を勧めた。歴史をやると政治的になるので、生物学を勧めたという。
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