三浦樗良とは? わかりやすく解説

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みうら‐ちょら【三浦樗良】

読み方:みうらちょら

1729〜1780]江戸中期俳人志摩鳥羽の人。通称勘兵衛別号無為庵など。伊勢山田、のち京都に住む。蕪村らと親交を結び、中興俳壇代表的俳人となった編著我庵(わがいお)」、句集樗良発句集」。


三浦樗良

読み方みうら ちょら

江戸中・後期俳人志摩生。字は冬卿、通称勘兵衛別号無為庵・榎本庵等。天明中興俳諧六家一人伊勢無為庵を結び、与謝蕪村らと交わる。流浪行脚の生活が長く晩年京都住した安永9年(1780)歿、52才。

三浦樗良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/01 15:02 UTC 版)

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三浦 樗良(みうら ちょら、享保14年〔1729年〕 - 安永9年11月16日1780年12月11日〕)は江戸時代中期の俳諧師。名は元克[1][2]、字は冬卿[3]、通称勘右衛門[3]、法号玄仲[3]、別号に一呆廬・二股庵・無為庵[3]

来歴

志摩国答志郡鳥羽城下の大里(現・三重県鳥羽市鳥羽二丁目)で生まれ、伊勢国度会郡山田(現・伊勢市)に出て和田希因に入門する[4]。伊勢俳諧の伝統がある紀伊長島の貞門系の百雄に学び[1][2][3]、次第に伊勢派に近づき「我庵」で自風を確立。一時江戸に出るが窮乏[2]、帰郷して俳諧宗匠として安定した生活を送る。その後京都木屋町に無為庵を薄し、与謝蕪村周辺とも交流があった[1]。中興期俳諧の一翼を担い[1]、俳諧中興の六客の1人に数えられた[4]。晩年は仏門に入り、玄伸と名乗った[4]。安永9年(1780年)、伊勢国山田にて52歳で死去[1]。墓は伊勢市尾上町の寿厳院に構えられている[4]。同院には、山田で詠んだ「わか庵は 榎はかりの おちは哉」の句碑(落葉塚)もある[5]

著書

  • 『樗良文集』[4]
  • 『樗良発句集』[4]
  • 『七部集』[4]
  • 『白頭鴉集』[4]
  • 『雪の花』[4]
  • 『花七日』[4]
  • 『きくの香』[4]
  • 『時雨のあめ』[4]
  • 『仏の座』[4]
  • 『一日行脚』[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』講談社、2009年。
  2. ^ a b c 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版
  3. ^ a b c d e 岡本勝雲英末雄編 『新版 近世文学研究事典』 おうふう、2006年2月、371頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鳥羽市史編さん室 1991, p. 1075.
  5. ^ 伊勢市尾上町寿厳院の三浦樗良(みうらちょら)句碑”. 三重県内の句碑. 三重県三重県環境生活部文化振興課. 2019年11月19日閲覧。

参考文献

関連項目

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