万国博覧会と林忠正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 13:52 UTC 版)
明治政府は貴重な貿易の機会である万博に熱意を持たなかった。だが林は最後まで万博に関わった。国の政策を批判しながらも、種目別の博覧会にも個人で参加した。1900年パリ万国博覧会は、日清戦争に勝利した日本にとって重要な博覧会だった。パリに強い基盤を持ち、博覧会の経験も多い林は、伊藤博文や西園寺公望、有栖川宮などの推挙によって、博覧会事務官長に抜擢された。本来であれば農商務省の次官が就くべき地位に、一介の商人が就任したことに人々は驚き、嫉妬の混じった悪口を浴びせた。しかし、それまでの事務官長と違い、林は自ら陣頭に立って職務をこなした。そして事務官長の報酬は一切受け取らなかった。その代わり、彼はかねてからの念願を実現させた。1000年にわたる日本美術の総体を「日本古美術展」として万博会場に展示したのである。国宝級の美術品を、1月半もかかる船便で送る危険を冒して、日本の芸術・文化を世界に顕示したかったのである。それは世界の知識人に、大きな感動を与えたのだった。しかし、博覧会の終了後、林と出品人との間に大きな諍いが起きた。万博終了後、出品人は売れ残った品を投げ売りして帰国するのが慣例だった。それは開催国の商人に大きな損害を与え、日本商人の商道徳のなさを各国から指弾されていた。その非難を受け止めた林は、「世界の商法に従え」と投げ売りを絶対に許さなかった。「自国民の利益を護らない売国奴」「国賊」の悪罵は最近まで残った。
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