ヴォーバン式要塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 15:34 UTC 版)
「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事における「ヴォーバン式要塞」の解説
「星形要塞」も参照 Association Vauban - ヴォーバンの第一方式から第三方式の模式図がある。 軍事技術者としてのヴォーバンの素質は、新しい方法の発明よりむしろ伝統的方法を使用し適合させた機略縦横の点にあったといわれ、その巧妙さはピレネー山脈のモン=ルイ、そしてサヴォイア公国領にあるモン・ドーファンやケイラ城のような困難な場所においてよく発揮されている。 手がけた要塞のうちでもっとも有名なのは、リール要塞(1668-1674)、モブージュ要塞(1679年-1685年)、そしてヌフ・ブリザック(1697年-1708年)である。彼の要塞のいくつか、とりわけロンウィ(1678年建造)は1914年-1918年の戦争にいたるまで効果的に軍用として用いられた。 中世までの石積みで背の高い城壁は、ルネサンス期に攻城砲が出現すると格好の射撃目標となった。攻城砲の威力を減殺するために、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった。一方で防御側としても、同時期に登場した銃の威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、死角がないように城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。こうして稜堡式城郭が発達していった。 ヴォーバン式要塞は稜堡式城郭の完成形とも言える。ヴォーバンの築城法は、それまでにフランスやイタリアで定着していた方法と比べ独創的なものではない。ただし、それらを精緻な体系として作り上げたことにヴォーバンの功績がある。 1680年以前のヴォーバンの築城法は「第一方式」と呼ばれ、基本的には当時の標準的な方式である。典型例はザールルイで見られる。稜堡の先端部同士の間隔を約300mに設定し、要塞全体の形状は線対称の多角形とされた。稜堡と稜堡の間にはラヴェラン(半月堡)と呼ばれる本体と分離した防御施設が置かれた。 1682年のベルフォールの築城以降採用された「第二方式」では、ヴォーバンの経験に基づく改良が取り入れられている。まず稜堡を二重式にして、外側を本体と分離し、外側が攻め落とされても抗戦を続けられるようにした。ラヴェランの内側に設置される凹堡も強化された。 1698年のヌフ=ブリザックの築城で採用された「第三方式」ではラヴェランも二重化された。このようにして、縦深性を高めた堅固な防御システムが完成した。
※この「ヴォーバン式要塞」の解説は、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の解説の一部です。
「ヴォーバン式要塞」を含む「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の記事については、「セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン」の概要を参照ください。
- ヴォーバン式要塞のページへのリンク