ヴァイオリニストとなるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:38 UTC 版)
「チャールズ・マーティン・レフラー」の記事における「ヴァイオリニストとなるまで」の解説
レフラーはヴァイオリン奏者になる決意を固め、ベルリンでヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリンを、キールでヴォルデマール・バルギールに作曲を入門した後、パリに留学してジョゼフ・マサールにヴァイオリンを、エルネスト・ギローに作曲を師事する。その後パドルー管弦楽団にヴァイオリン奏者として入団した後、1881年に恩師ヨアヒムの推薦書を携え、ボストン交響楽団に入団すべくアメリカ合衆国に移住し、1882年から1903年まで同楽団の事実上の準コンサートマスターを務めた。 1891年からはボストン交響楽団に自作の管弦楽組曲(Les Vieilles du Ukraine )を演奏してもらって作曲家としてもデビューし、以降はアメリカ国内のオーケストラに作品が上演されるようになった。1887年には米国市民権を取得し、ついにはボストン交響楽団を退団して作曲に専念するようになる。友人にはウジェーヌ・イザイやジョン・シンガー・サージェントがいたほか、ガブリエル・フォーレやフェルッチョ・ブゾーニ(2人からは作品を献呈されている)、後にはジョージ・ガーシュウィンとも親交を結んだ。 幅広い教養と洗練された趣味の持ち主として、同時代のフランス音楽やロシア音楽に深く根ざした音楽語法を発展させており、とりわけ管弦楽曲においては、セザール・フランク、ヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、クロード・ドビュッシーの作風に明らかに影響されている。それと同時に、象徴主義文学や頽廃主義の詩人たちにも感化された。 創作においてはしばしば変わった楽器法を試みており、1894年にヴィオラ・ダモーレを入手して以来、演奏家としても作曲家としてもこの楽器の復興に情熱を注いだ草分けのひとりとなった。意外なようだが、後にはジャズにも熱狂し、ジャズバンドのための作品をいくつか手懸けてもいる。1935年、マサチューセッツ州メドフィールドの自宅にて永眠。74歳であった。
※この「ヴァイオリニストとなるまで」の解説は、「チャールズ・マーティン・レフラー」の解説の一部です。
「ヴァイオリニストとなるまで」を含む「チャールズ・マーティン・レフラー」の記事については、「チャールズ・マーティン・レフラー」の概要を参照ください。
- ヴァイオリニストとなるまでのページへのリンク