ルイストンへの航路開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 15:03 UTC 版)
「コロンビア川」の記事における「ルイストンへの航路開設」の解説
早くとも(現代国語としての誤用だが、書き直してもよいだろうか? 2021/Jan/4記入)1881年には、実業家の中にコロンビア川の自然な流路を改善し、航行能力の向上を求める声が挙がっている。年月を要する河川改修には、河口部における導流堤の建設、浚渫、運河と閘門の建設などが視野に入ってくる。今日、海洋船舶はポートランドとバンクーバーまで遡上が可能で、艀であればかなり内陸のアイダホ州ルイストンまでたどり着くことが可能だ。 コロンビア砂州が位置を変え続けていることが、川と太平洋間の航行を困難かつ危険にし、川の流れに数多く存在する早瀬も航行の妨げとなっている。ジェームズ・A・ギブスの1964年の著作 Pacific Graveyard には、コロンビア河口周辺に数多くの難破船が存在する事が記されている。 導流堤が最初に設けられたのは1886年で、海に至る可航水路が拡張された。強い潮流と移動する砂州のために、河に出入りする船舶への危険性は残存しており、導流堤の保守管理は欠かすことが出来ない。 1891年には、コロンビア川の可航水域を拡張するため浚渫が実施された。太平洋からポートランド及びバンクーバーに至る航路の水深は5.2メートルから7.6メートルまで掘り下げられている。コロンビアン(英語版)誌に掲載された記事では、早ければ1905年までに航路の水深を12メートルまで掘り下げる必要性を称えていたが、それが実現するには1976年まで待たねばならなかった。 カスケード閘門群および運河(英語版)がカスケード急流で最初に建設されたのは1896年で、これにより蒸気船が安全にコロンビア川峡谷を航行できるようになった。セリロ滝を迂回するセリロ運河(英語版)が開通したのは1915年である。20世紀中葉には、複数のダムが建設されて、川に存在したいくつもの早瀬がダム湖の底に消えていった。大規模な閘門群が設置され、船舶や艀が容易にダムを超えて港口を続けることができるようになされている。コロンビア川とスネーク川を経由してアイダホ州ルイストンまで至る航路が完工したのは1975年であった。水運を利用する主要産品のひとつが小麦であり、ほとんどが輸出される。合衆国から輸出される小麦の40パーセント以上がコロンビア川を艀で運ばれている。 セント・ヘレンズ山の1980年の噴火活動(セント・ヘレンズ山の1980年の噴火活動、英語版)の際には、その周辺で泥流が頻発して川に土砂が流れ込み、コロンビア川本流でも6キロメートル以上の区間において水深が7.6メートルまで浅くなり、ポートランド経済に悪影響を与えた。
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