リトルロック高校事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > リトルロック高校事件の意味・解説 

リトルロック高校事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/16 02:52 UTC 版)

黒人生徒の入学に反対し学校を封鎖する白人たち。プラカードには「人種混合は共産主義だ」「反キリストの人種混合行進を止めよう」と書かれている

リトルロック高校事件(リトルロックこうこうじけん、英:Little Rock Nine)とは、1957年アメリカ合衆国アーカンソー州リトルロックで起こった人種差別騒動。アメリカ公民権運動における重大事件のひとつである[1]

概要

リトルロック・セントラル高校

1954年のブラウン判決によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となり[2]、各地で白人と黒人が同じ学校に通う融合教育化が進められるようになった。

アーカンソー州は人種偏見の強い南部の中では差別撤廃に最も積極的な州ではあったが、1957年にリトルロック・セントラル高校の融合教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事オーヴァル・フォーバス英語版州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止した。異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対した。

リトルロック市長ウッドロー・ウィルソン・マンがフォーバス知事に法律順守を進言したが拒否されたため、マン市長はドワイト・D・アイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請した。アイゼンハワー大統領は事件について報告されていたにもかかわらず、州の権限に介入することによる政治的問題が起こることを鑑みて静観していたが、騒動がテレビで大々的に報じられ国内外で大きな注目を浴びるに至り、市長の要請に応じて陸軍第101空挺師団をリトルロックへ送り込んだ。入学予定の9人の黒人学生(#リトルロックの9人)は軍の護衛付きで登校した。

その後も軍の警護がついたが、校内では白人生徒による黒人生徒への激しいいじめや命にかかわるような暴力的な嫌がらせが続き、耐えかねて一人が中退したが、1958年に一人が無事卒業した。フォーバス知事は、騒動後も融合教育に反対し続け、融合を命じられた高校3校を突然閉校するという暴挙にまで及んだ。

1959年、ジャズ・ミュージシャンのチャールズ・ミンガスはこの事件を揶揄する曲『フォーバス知事の寓話英語版』を発表し、歌詞の中で知事とアイゼンハワー大統領を激しく批判した。

フォーバス知事は地元民の支持を受け、1967年の退任まで12年間も知事職を務めた。リトルロックのすべての高校で融合教育が実施されたのは1972年である。

経過

タイム誌の表紙を飾るリトルロック高校事件
黒人生徒の入学に反対する声明を読み上げる州知事フォーバス(右から2番目)
高校付近のビジターセンター
  • 1954年5月17日 ブラウン判決により、分離教育が違憲とされる。
  • 1954年5月23日 リトルロック学校委員会が分離教育撤廃を宣言する。
  • 1955年 学校委員会、1957年からリトルロック・セントラル高校の分離撤廃を決定(同州では1949年に大学1校、1951年に図書館1館、1955年に公共バスでの人種分離が撤廃されている)。
  • 1957年春 同高校の通学範囲内に住む517人の黒人学生のうち、80人が転入を希望したが、委員会によって17人に絞られ、最終的に9人になる。この9人は公民権運動のシンボルとして「リトルロックの9人(Little Rock Nine)」と呼ばれるようになる。
  • 1957年8月 セントラル高校の母親会が急遽組織され、暴動が予測されるとして融合を阻止する要望書を連邦地方裁判所に提出したが、判事によって却下される。
  • 1957年9月2日 暴動が予測されるという名目で、黒人学生の登校を阻止するため、フォーバス知事が州兵に命令を出す。
  • 1957年9月3日 連邦地方裁判所判事から4日から授業を開始するよう命令が出る。
  • 1957年9月4日 知事に命じられた100人の州兵が高校に配置される。市民約400人も集まり、9人の黒人に罵声を浴びせるなどして入学阻止。一人はリンチを受けたが、未遂で終わる。
  • 1957年9月20日 警察出動。
  • 1957年9月23日 1000人の白人が高校を取り巻いたため、黒人学生は裏口から登校。それを知った群衆が暴徒化したため、黒人学生は退去。同夜、アイゼンハワー大統領が連邦法に従うよう声明発表。
  • 1957年9月24日 市長ウッドロー・ウィルソン・マンが大統領に軍隊の派遣を要請。了承される。
  • 1957年9月25日 派遣された陸軍第101空挺師団の部隊に守られながら黒人学生登校。
  • 1957年12月 黒人学生の一人(ミニジーン・ブラウン)がいじめに対して反撃したところ、停学となり、のちに退学する。校内には白人学生による「一人脱落。あと8人(One down, Eight to go)」という貼り紙が貼られた。
  • 1958年5月27日 黒人学生の一人(ジェファーソン・トーマス)が卒業。
  • 1958年9月 フォーバス知事がリトルロックの融合教育指定高校3校を閉鎖。
  • 1972年 リトルロックのすべての高校で融合教育が実施される[3]

リトルロックの9人

脚注

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度44分12秒 西経92度17分55秒 / 北緯34.73667度 西経92.29861度 / 34.73667; -92.29861


リトルロック高校事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:08 UTC 版)

アフリカ系アメリカ人公民権運動」の記事における「リトルロック高校事件」の解説

ローザ・パークス逮捕事件と「モントゴメリー・バス・ボイコット」に先立つ1954年には、公立学校における人種隔離違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決最高裁において下され、これ以降全米学校において長年行われていた人種隔離廃止されていくこととなった。 しかし、人種差別的な風潮色濃く残る南部中西部各州においては州政府により人種隔離への対応はまちまちであった1957年には、ブラウン対教育委員会裁判判決以降白人しか入学させていなかった、アーカンソー州では州立リトルロック・セントラル高等学校への9人の黒人学生入学を、再選のための白人稼ぎ目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス(英語版州知事拒否し、「白人過激派による襲撃事件起きるという情報があるので学校閉鎖する」という理由をつけて州兵召集し学校閉鎖し黒人学生入学妨害するという事件が起きた。 「リトルロック高校事件」を参照 公民権運動全米規模盛り上がり見せ中に発生したこの事件に対して反人種差別運動家だけでなく、白人多く占めアメリカ国内世論、そして連邦政府反発見せたドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事事態の収拾を図るよう命令したが、この命令無視されたため、急遽アイゼンハワー大統領アメリカ陸軍第101空挺師団派遣し入学する黒人学生護衛させた。その後9人の黒人学生無事に入学したが、白人学生からの執拗ないじめに遭うことになった

※この「リトルロック高校事件」の解説は、「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の解説の一部です。
「リトルロック高校事件」を含む「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の記事については、「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「リトルロック高校事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リトルロック高校事件」の関連用語

リトルロック高校事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リトルロック高校事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリトルロック高校事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアフリカ系アメリカ人公民権運動 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS