ラッペ殺人事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:21 UTC 版)
「ヘンリー・レアマン」の記事における「ラッペ殺人事件」の解説
1915年、レアマンはユニバーサル社と提携して2巻もの喜劇を専門に製作するL-KO社(英語版)を設立。「L-KO」とは、「レアマン、ノックアウト」という一種自虐的な意味であった。しかし、L-KO社での作品はキーストン映画の亜流とみなされてぱっとせず、1917年にはユニバーサル社との契約を打ち切ってフォックス・フィルムと新たに提携。1920年には提携先をファースト・ナショナル(英語版)に再変更し、フォックス・フィルムとファースト・ナショナルの配給による「サンシャイン・コメディ」と銘打った作品群を生み出すこととなった。 レアマンが「サンシャイン・コメディ」シリーズで起用した女優の一人にニューヨーク出身の人物がいた。この人物、ヴァージニア・ラッペはやがてレアマンと恋愛関係に落ちることとなる。ところが、ラッペは1921年9月5日にサンフランシスコで開かれた「ファッティ」アーバックル主催のパーティーに参加したのち体の変調を訴え、4日後の9月9日に膀胱破裂に起因する腹膜炎で死亡した。レアマンは恋人の死を電報と新聞で知って愕然とした。悲しみにくれるレアマンはラッペをハリウッド記念公園墓地(英語版)に埋葬する手続きを終えたのち、ラッペに近い関係者の一人として事情聴取を受けた。事件当時レアマンはパーティーの会場におらず、「サンフランシスコから人づてに聞いた情報」と前置きしたうえで次のように語った。 私は、彼女(ラッペ)を殺したのはアーバックルであると信じている。彼女の死が何を意味しているかは私は知っているので多くは望まないが、願わくば法による正義の裁きがアーバックルに下って、彼を処罰することを切に願う。話を聞いたとき、私はアーバックルを憎んでわが手で復讐をしてやろうと思ったぐらいであった。私とアーバックルは旧知の間柄であったが、彼は多くのことに無知であり、また女子更衣室に入り込むことがあったので外につまみ出すなどをした。彼は高給取りとなったが、コカインやアヘンに手を出して乱交パーティーも開いていたようであった。幸い、私はその手のパーティーには参加したことがなかったが、乱交パーティーに参加していた人物は映画界から放り出さなければならないだろう。ラッペやその友人はまともであったが、私は彼女らが毒牙にかかったものと信じている。 — このように語ったレアマンが実際にどのような情報を得ていたのか、またレアマンの証言が裁判に与えた影響などについては定かではない。一つ言えるのは、アーバックルは「ラッペをレイプして殺した犯人」として起訴され、無罪評決が下されたものの映画界からは事実上追放されることとなった。
※この「ラッペ殺人事件」の解説は、「ヘンリー・レアマン」の解説の一部です。
「ラッペ殺人事件」を含む「ヘンリー・レアマン」の記事については、「ヘンリー・レアマン」の概要を参照ください。
- ラッペ殺人事件のページへのリンク