ユング・コーデックス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:13 UTC 版)
「ナグ・ハマディ写本」の記事における「ユング・コーデックス」の解説
コーデックスIの大半は、カイロ在住のベルギー人古物商のアルベール・エイド (Albert Eid) を通じてエジプト国外に流出した。 1949年、エイドは政府の介入を恐れ、大量の輸出品の中に写本を紛れ込ませてアメリカへ密輸出した。同年、エイドはニューヨークで、二万二千ポンドで売却しようとしたが失敗した。エジプト政府が売却に反発することを顧客が恐れたのが失敗した理由らしい。エイドはベルギーに戻り、写本をパスワード付きの保管箱にしまいこんだ。その後、アン・アーボール (Ann Arbor) でこれらを売却しようとしたが同様に失敗した。また、パリでも売却しようとしたがこちらも失敗している。エジプト政府はエイドを考古物の密輸出の罪で訴追し、六千ポンドの罰金刑の判決が出たが、判決前にエイドは亡くなった。 一方、エイドの未亡人は秘密裏に写本を売却しようとしていた。古代キリスト教史家のG.クィスペル(ユトレヒト大学教授(当時))によると、自身はこの写本が密輸出されたものだとは知らなかったとのことだが、ユング研究所を説得して、写本を購入するように急がせた。写本は、1952年5月10日になって、エイドの未亡人から、クィスペルを介してチューリヒのユング研究所の手に渡った。これらは、誕生日祝いのプレゼントとして研究所からユングへ贈られたため、コーデックスIの整理番号が付けられるまでは「ユング・コーデックス」と呼ばれていた。 ユング・コーデックスは、1956年から1975年にかけて6巻にわたって出版された。1961年にユングが亡くなると写本の扱いを巡って議論が起こったが、少しずつエジプトに返却されていき、最終的にユネスコが買い取って1975年にユング・コーデックスの全てがコプト博物館に収蔵された。こうして1945年の発見以来、30年ぶりにカイロに全ての写本が揃うことになった。写本の総ページ数は1000ページにも及ぶ。
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