ユング心理学との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:10 UTC 版)
1962年に天理大学で助教授になった後、大学の許可を得て1962年から1965年までスイスに渡り、ユング研究所 (C. G. Jung-Institut Zürich) で日本人として初めてユング派分析家の資格を得る。その際、C・A・マイヤー (Carl Alfred Meier) に師事した。 河合が心理療法家、なかでもユング派に属したことは、幼いころから感じていた自分自身の死の恐怖に導かれてのことであったといってもいいほどで、それは意図的になされたものではなく、多くの偶然の重なりの中で、何者かによってアレンジされたかと思うほどの流れでユング派の分析家となった、と著書『対話する生と死』の中で語り、さらにユング派のサークルでは他派に比べ、死について語られることが多いと述べている[要ページ番号]。 帰国後、1972年から1992年まで京都大学教育学部で教鞭を執る。退官後、プリンストン大学客員研究員、国際日本文化研究センター所長(1995年-2001年)を歴任する。
※この「ユング心理学との出会い」の解説は、「河合隼雄」の解説の一部です。
「ユング心理学との出会い」を含む「河合隼雄」の記事については、「河合隼雄」の概要を参照ください。
- ユング心理学との出会いのページへのリンク