メシェデの起源
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エンステ市区の新しい産業地区で、2014年の建設工事によって、ローマ時代以前の鉄器時代の農民集落跡が発見された。本格的なメシェデの歴史は8世紀から9世紀にまで遡る。この頃、市の中心部から約 1.5 km 離れた場所にカロリング朝時代の土塁城砦ヒューネンブルクがあった。フランク人の統治下でこの城は特に避難城砦として用いられたが、ザクセン戦争の戦闘後は権力のシンボルとしても記録されている。この城は戦術的に建設されており、この中低山地で交差する2つの街道の近くにあった。この中世の街道が交差する地点に、やはり9世紀にエムヒルディスによって貴族のための女子修道院が設けられた。その守護聖人は聖ヴァルブルガ(ドイツ語版、英語版)であった。エムヒルディス自身がその初代女子修道院長となった。修道院教会の最初の建物は明らかにカロリング朝時代に建設された十字型のバシリカ教会であった。この教会の遺構として西塔(ドイツ語版、英語版)(900年頃)と地下聖堂が現存している。この修道院は18世紀に世俗化された。 修道院による入植で10世紀にはすでに集落が繁栄し、メシェデの名前が初めて文献に登場してから約40年後の958年にオットー1世が市場開催権と関税権を授けた。その後修道院はその所有地を拡大し、ヴェストファーレンで最も豊かで大きな土地所有者の1つとなったが、強大なアルンスベルク伯(ドイツ語版)の支配下に置かれていた。 メシェデには早くから教会区が設けられていた。その集落は女子修道院から100 m 程しか離れていない「イム・レベル」通り付近にあった。「マリエ・ヒンメルファールト・エト・ザンクト・ヨハニ」教会(聖マリア被昇天および聖ヨハネ教会)がメシェデおよびメシェデ=ラントの教区教会であった。修道院の世俗化に伴い、教会は学校に転用され、その後完全に解体された。その洗礼盤(ドイツ語版、英語版)が現在聖ヴァルブルガ教会に遺されている。さらに中世初期にはクラウゼンベルクにミヒャエリス礼拝堂があった。この宗教建造物は10世紀からこの街の高台に建っていたが、現在は遺されていない。
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