メキシコリーグ騒動の顛末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:23 UTC 版)
「1949年のメジャーリーグベースボール」の記事における「メキシコリーグ騒動の顛末」の解説
1946年に18名のメジャーリーグの選手が強引な勧誘でメキシコリーグに移ったが、1948年とこの年1949年に40万ドルの大欠損を出してリーグを支配していたメキシコの大富豪ホーヘイ・パスケルらのパスケル兄弟が抜けたため、メキシコに移った選手がメジャーリーグに戻ろうとする動きが出てきた。既に1946年から1950年まで5年間出場停止処分がコミッショナーのチャンドラーから下されているため球団から拒否された。このことでダニー・ガーデラーら選手4名が訴訟を起こし「野球機構の保留条項は独占禁止法に違反する」として訴えたが、これに対し連邦地裁は1922年の最高裁判例をもとに根拠なしとして却下された。そこでガーデラーらは連邦控訴審に上訴して、控訴審では審理やり直しの判決が出たため裁判はやり直すことになった。そしてこの時にいつのまにか「保留条項」の表現が球団側の権利ではなく、選手との契約の中にあらかじめ選手が同意する旨の内容に書き変えられてあったため(1947年に改訂されていた)、「保留条項」での争いを諦めて「5年間の資格停止処分」は違法である旨の訴えを行った。しかし結果は同じで敗訴となったが、チャンドラーは改めて特例として3年前に出した出場停止処分を解くことで政治的な決着を付けて、結局メキシコリーグに移った選手は再びメジャーリーグでプレーすることができるようになった。この騒動の過程で裁判の場に持ち込まれて以前から問題視されていた、いわゆる「保留条項」の問題が再び注目されてきて、しかも審理やり直しになったことはこの問題の根深さを物語っている。
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