メイクテーラ攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
詳細は「メイクテーラとマンダレーの戦い(英語版)[要リンク修正]」を参照 「盤作戦」は出だしからつまづいた。スリムは第33軍団をマンダレーへ向かわせて日本軍を引きつけつつ、2月17日第4軍団をチンドウィン川とイラワジ川の合流点の下流で渡河させ、第17インド師団と第255インド機甲旅団を第15軍背後の要衝メイクテーラ(現在のメイッティーラ)へ向けて突進させた。機械化部隊の進撃速度は日本軍の想像を超えていた。メイクテーラの守備兵力は急遽かけつけた歩兵第168連隊の他は後方部隊ばかりで、3月3日イギリス軍に制圧された。 日本軍はシャン高原(英語版)から第33軍司令部を抽出し、これに第18師団と第49師団を配属して、メイクテーラの奪回を図った。日本軍はメイクテーラを包囲し、肉弾攻撃と夜襲を反復したものの、イギリス軍の機械化部隊に対して、十分な対戦車装備を持たない日本軍は一方的な打撃を被った。 その頃マンダレーでは第19インド師団が市内へ突入していた。死守を命じられた第15師団は激しく抵抗し市街戦となったが、幹部が相次いで死傷し、これまでと判断した片村四八軍司令官は独断で撤退を命じた。イラワジ河畔では第15軍の将兵が連日炎暑に耐えて苦闘を続けていたが、イギリス軍は至るところから突破し、戦線は次第に全面崩壊の様相を呈した。3月28日、日本軍はメイクテーラ奪回を断念し、盤作戦を中止した。第15軍はシャン高原へ後退した。
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