ムハンマド・アフマドの死と後継者
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「ムハンマド・アフマド・アル=マフディー」の記事における「ムハンマド・アフマドの死と後継者」の解説
ハルトゥームの解放後6か月経って、ムハンマド・アフマドはチフスにより亡くなった。彼の遺体はウンム・ドゥルマーンに埋葬された。アル=マフディーは自らに死が訪れる時に備えて、代理となる者を3人、選んでいた。これは神の預言者ムハンマド・アブドゥッラーフの故事にならったものである。ところがそのせいで混乱が長く続くことになった。3人がそれぞれ、出身地域の人々の支持を受けて相争うことになったからである。混乱はアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドがアラビア語を話しサヘルに住む人々、バカーラ人の支援を受けて圧倒的に優勢になるまで続いた。「ハリーファ」(後継者)と呼ばれたアブダッラーヒは、マフディーヤからムハンマド・アフマドの家族や古参の弟子たちを粛清した。 ハリーファ・アブダッラーヒは、ジハードを通してマフディーヤを拡大するというムハンマド・アフマドの構想の実現に傾注した。しかしこのジハードは、事実上隣接する諸邦との関係の悪化を招いた。一例を挙げると、ハリーファ・アブダッラーヒは、エチオピア皇帝ヨハンネス4世から提案されたヨーロッパ人と対抗するための同盟を断った。エチオピア人の多数派はムスリムでないため、彼の目には同盟の価値が低いと映った結果であった。それどころか、1887年にはアンサール60,000人に命じてエチオピアに侵攻させた。アンサールたちは首都ゴンダールにまで至り、捕虜と戦利品を得た。ハリーファ・アブダッラーヒは、すべてのエチオピア人がイスラームに改宗しないかぎり、敵対関係を終わらせたりエチオピアと平和交渉をしたりすることを拒否するとした。 1889年3月にヨハンネス4世は、エチオピア皇帝(ナグーサ・ナガースト)個人の名において軍に命令し、スーダンへの反撃をさせた。カッラーバートまで進軍したが、ヨハンネス4世が戦死し、エチオピア軍は降伏した。 ハリーファ・アブダッラーヒは1898年にキッチナー将軍率いるイギリス軍により最終的に打ち負かされる。ムハンマド・アフマドの墓は信奉者の聖地となるのを防ぐために破壊され、彼の頭蓋骨はキッチナーが戦利品として手に入れる一方、残りの遺骨はナイル川に投げ入れられた。頭蓋骨はのちにワーディー・ハルファーに埋められたと言われている。墓は最終的に再建された。
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