マールブルク期(1919-1939)
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「ハンス・ゲオルク・ガダマー」の記事における「マールブルク期(1919-1939)」の解説
ガダマーはマールブルク大学での学びを開始する。パウル・ナトルプとニコライ・ハルトマンに師事し、新カント派の影響のもとで哲学を学ぶ。この頃、のちにガダマーとともにマールブルクにおける「三人の名望ある哲学私講師」として賞揚されるようになるカール・レーヴィットやゲアハルト・クリューガーに出会うことになる。 1922年、22歳で博士論文を提出するも(『プラトンの対話篇による快楽の本質』)、小児麻痺にかかってしばしの休養を余儀なくされる。この間にエトムント・フッサールの『論理学研究』や、とりわけマルティン・ハイデガーの『ナトルプ報告』を読んで衝撃を受ける。このため1923年の夏学期をフライブルクで過ごし、フッサール、ハイデガーとの出会いを果たす。また、ハイデガーが『ナトルプ報告』によってマールブルクの員外教授の座を獲得したため、ガダマーも10月にハイデガーについてマールブルクへと帰還。1924年にナトルプが逝去し、1925年にハルトマンがマックス・シェーラーの後任としてケルンに移ることによって、新カント派から現象学へという思想的な転換がはっきりしたものとなった。 しかし他方で、哲学・現象学についてなかなかその才を発揮できないことを叱咤する手紙をハイデガーから受けとったガダマーは、保険として古典文献学を学び始める。この頃文献学者パウル・フリートレンダーや聖書学者にして神学者ルドルフ・ブルトマンらとの親交を深める。1927年に古典文献学の国家試験に及第すると、これに満足したハイデガーが、みずからのもとで教授資格論文に取り掛かる許可を出す。1929年『プラトン『ピレボス』の解釈』によって教授資格を取得(1931年出版)、マールブルク大学にて私講師として授業を担当し始める。 1933年、アドルフ・ヒトラーが政権を掌握。ガダマーは非公式にもマールブルクの員外教授となるが、1939年にアルノルト・ゲーレンの後任としてライプツィヒ大学に正教授として着任する。
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