マールワー地方の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/23 01:13 UTC 版)
「マルハール・ラーオ・ホールカル」の記事における「マールワー地方の統治」の解説
1731年11月2日、マルハール・ラーオはマールワー2州の支配を宰相から委ねられ、マラーター同盟の諸侯となった。1734年までにその支配はインドール、マヘーシュワルにまで及んだ。 その後、マルハール・ラーオはバージー・ラーオの軍勢に随行し、1738年3月にデリーの戦いでムガル帝国を破り、同年12月にはボーパールの戦いでニザーム王国をはじめとする軍勢を破った。翌1738年1月に結ばれたボーパール条約では、ニザーム王国はマールワー地方を割譲せざるを得なかった。 また、ニザーム王国からのマールワーの割譲をムガル帝国に認めさせるため、1740年から1741年にかけて、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは帝国の首都デリーに向けて遠征を行い、同年7 月にその割譲と支配を認めさせた。これにより、マラーター勢力のホールカル家の支配がマールワーに確立するところとなった。 1743年、ジャイプル王国の内乱に介入し、マードー・シングに味方し、ラームプラ、バーンプラ、トーンクを割譲された。 1747年、マルハール・ラーオはインドールに巨大な宮殿ラージワーダーの建設を始めた。
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