マールワーの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 01:26 UTC 版)
「サングラーム・シング」の記事における「マールワーの征服」の解説
王位継承後、サングラーム・シングは中央インドのマールワーに目を付けた。 当時、マールワー・スルターン朝がマールワーを支配していたが、東部マールワーの強力なラージプートの宰相メーディニー・ラーイが君主マフムード・シャー2世に代わって実権を握っていた。マフムード・シャー2世は彼に対抗するため、ローディー朝(デリー・スルターン朝)のイブラーヒーム・ローディー、グジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーから支援されていた。 マフムード・シャー2世はグジャラート・スルターン朝に、メーディニー・ラーイはサングラーム・シングに援助を求めた。サングラーム・シングはマールワー・スルターン朝で起こったラージプートの反乱に参加、1519年にはマールワー・スルターン朝とグジャラート・スルターン朝の軍勢を破った。他方、この間にデリー・スルターン朝の軍勢がメーワール王国に侵入してきたが、これもガドリー破った。 サングラーム・シングは幾度かの戦闘でマールワー・スルターン朝の軍勢を完全に破った。マフムード・シャー2世は捕虜にされメーワール王国の首都チットールガルに連行されたものの、息子やほかの捕虜をチットールガルに残すことで解放された。 こうして、サングラーム・シングはマールワーを支配下に入れた。
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