マジの効果とその変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 21:20 UTC 版)
「マジ・マジ反乱」の記事における「マジの効果とその変化」の解説
キンジキティレのもっとも重要な教えは諸部族の団結であり、それまでの反抗ともっとも異なる部分だった。マジとそれを運んだホンゴを通して部族は団結し、ニヤンガオやマヘンゲ攻撃につながった。これら南部地域では、マジは単にヨーロッパ人に対する兵器ではなく、社会的動乱の潜在的な触媒だった。タンガニーカ南東部および南部の人々は別々の言語および文化グループに属していたがお互いに交流し、リーダーに従うときに部族制は存在しなかった。ただし部族間のボーダーがなくなったわけではなく、部族ごとでグループを組み、混成することはなかった。ホンゴは精神的だけでなく軍事的にもリーダーシップをとった。マジはホンゴが運んだのみならず、マジを受け取った部族から他の部族へ運ばれもした。それはホンゴ、ボケロ、そしてキンジキティレさえも知られていない地域に広がり、そこではそれらの意味も変わった。ンガランベでは本来の意味で、ホンゴはキンジキティレが憑依した霊を意味した。後にホンゴはキンジキティレの助手の肩書きとして使われた。ウンギンドでは、ホンゴはマジを運び、配る専門家を意味した。ウムウェラでは、マジを配る首長の誰をもホンゴと呼んだ。ウムブンガでは、ホンゴはマジを飲んだ戦士を意味した。ウズングワでは、反乱全体をパホンガと呼んだ。後になって、キロサでは本来の意味は完全に失われ、反乱運動は現地の言葉で“突き刺す”ことを意味するホマ=ホマと呼ばれた。これらの地域ではそれはもはや重要なことでは無く、今度はマジはその霊的な権威よりも単にその効能による兵器として扱われた。多くの部族間の協力関係は続いたが、1905年8月末には、既にその関係は崩れ始めていた。マジは(特に戦場において)その効果を発揮することはなく、信仰は疑念に変わった。人々がマジは無意味だと確信したとき部族団結のムーヴメントは終わりを告げ、反乱は部族単位の抵抗運動になり、多くはテロに走った。 ホンゴがマジを持って訪れた地域すべてが反乱に参加したわけではなかった。ヤオ族は部族間の対立から反乱に与せず、マコンデ族にマジが届いたとき、北マコンデは反乱軍に参加したが、ヤオ族の影響の強かった南マコンデはマジを拒絶した。ポゴロ族は組織力が弱く、マジを受け入れた者と拒否した者とで分裂した。ムクワワの死後、部族を統率する首長のいなかったヘヘ族はドイツ側についた。キワンガ族はマジを受け取る前に反乱を知り、近隣との関係や打算によりドイツ側についた。
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