ポーク・ドクトリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:43 UTC 版)
「ジェームズ・ポーク」の記事における「ポーク・ドクトリン」の解説
合衆国の領土膨張は南西部テキサスに向けても、また北方のオレゴンにおいても、神が我々に命じたもうた使命である こう語って大統領選挙を制したポークは就任(1845年3月)直後からオレゴン領土問題の進展を英国に強硬に主張し、結果大幅な譲歩(現在のワシントン州)を勝ちとって決着させた(1846年6月)。またこの動きと呼応するように、テキサス以西カリフォルニアまでの領土買収をメキシコに持ち掛け、これを拒否されるやメキシコに宣戦を布告した(米墨戦争)。開戦はリオ・グランデ川東岸(テキサス)の防衛を口実としたが、合衆国軍は当初よりメキシコ領の奥深くカリフォルニアにまで侵入し、最終的には首都メキシコシティを占領(1847年9月)してニューメキシコからカリフォルニアに到るまでの広大な(メキシコ領土のほとんど半分、英仏両国の本土を足した領域よりも広い)領土を僅かな金額で獲得した(1848年2月、グアダルーペ・イダルゴ条約)。 ポーク政権の行動は19世紀の合衆国における領土膨張のハイライトともなったが、その理由の一端はポークが議会にあてた教書の中に示されている。以下要旨。 我々は欧州列強との同盟を否定し、欧州のいかなる国からの干渉も排除する。欧州列強は合衆国がテキサスを併合したことに対して北米大陸における勢力均衡が崩れるとの理由から反対している。しかし列強が好む勢力均衡、即ち複数国家の均衡は欧州を利するだけであり、そのような主張も欧州の干渉として排除する。我々はこの大陸の国民だけが、おのれの運命を決する権利をもつという原則を主張し続ける。 — ジェームズ・ポーク、大統領年次教書(1845年12月) 合衆国史上もっとも傲慢にみえるこの教書は1823年のモンロー・ドクトリンを更に拡大したものとして「ポーク・ドクトリン」と呼ばれた。その核心は、合衆国が今後北米大陸における覇権的盟主であることの宣言であり、これは西へ拡大する合衆国の前にニューメキシコ、カリフォルニアがある限り、この二つの地域は合衆国に譲られるのが当然であるとの主張を欧州列強だけでなくメキシコに対しても傲然と言い放った宣言にほかならなかった。
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