ポルトガルの支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:51 UTC 版)
ガティ・ルセレの死後、ポルトガルはキリスト教に改宗してゴアに留学していた王子ディオゴを国王に擁立した。1624年にショナ人文化の中で成長したディオゴの王子カパラリゼが新たな王となり、ディオゴ時代の重臣に代わって起用されたカラパリゼの側近たちはポルトガル人の排除を主張した。1628年にポルトガルの使者がモノモタパの宮廷で殺害される事件が起き、王国の領内でポルトガル人の商業活動が禁止される。翌1629年にカパラリゼはポルトガル軍に敗れてザンベジ川北岸に逃亡し、カパラリゼの叔父であるマブラが王位に就けられた。1631年に各地の主張や有力者を味方に付けたカパラリゼが反撃に出るが、モザンビーク総督スーザ・デメネセズによって反抗は1632年までに鎮圧された。 マブラは即位後に女王と共に洗礼を受けてフィリッペと名乗り、数代に渡ってキリスト教徒のモノモタパ王が現れた。1629年にマブラはポルトガル王国に臣従を誓い、ポルトガル人からの徴税権の保持は認められたものの、金の貢納、鉱山を与える権限の放棄を認めなければならなかった。王国内での宣教師の行動と商人の移動の制約は解除され、ジンバブエ高原北東部はポルトガル軍閥による鉱山の採掘と人間の徴発によって荒廃する。モノモタパの東のバルウェ王国はポルトガルの直接支配を受け、ポルトガル本国の臣従国となったキテベ、マニカでも傀儡の王が擁立された。
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