地域大国への道程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:59 UTC 版)
通商上の要衝であったマスカットは、1507年から1650年にかけてポルトガルの支配下に入っていた。しかしヤアーリバ朝創始者であったナーシル・ビン・ムルシド(英語版)がポルトガルへの断続的な抵抗を指揮したことで、ポルトガルはオマーン全土を支配するには至らず徐々に領土を奪われていった。そして17世紀半ばになると、オマーン部族はマスカットでのポルトガル人による支配に終止符を打つことに成功した。この時マスカットを占拠した際に停泊していたポルトガルの大型帆船という戦利品は、その後における帝国の貿易活動と繁栄に大きく寄与していった。また、同じころにはサファヴィー朝イランへの攻撃も実施され、1670年ごろにはホルムズ要塞を3ヵ月にわたって包囲したほか、1694年にはペルシア湾へ艦隊を派遣してペルシア人の貿易活動を妨害しようと試みた。サイフ・ビン・スルターンの治世下の1696年にはオマーン艦隊がモンバサを攻撃し、2,500人の住民が避難していたポルトガルのジーザス要塞を包囲した(ジーザス要塞包囲戦)。この攻囲戦は守備隊が餓死したことで33ヵ月後に終わり、その後もサイフ・ビン・スルターンはアフリカ東海岸への拡大を続けた。 こうしてモンバサを攻略しポルトガルやペルシア勢力を駆逐したオマーン帝国はインド洋西部における支配を強めていき、1783年までには東方へと拡大して現在のパキスタンにあるグワーダルに至った。オマーン人はインド西部のポルトガルの基地も攻撃し続け、北方ではペルシア湾にてバーレーンを数年間占拠し続けた。帝国の勢力拡大と南方への影響には、オマーン人移民によるザンジバル諸島への最初の大規模な入植も含まれた。
※この「地域大国への道程」の解説は、「オマーン帝国」の解説の一部です。
「地域大国への道程」を含む「オマーン帝国」の記事については、「オマーン帝国」の概要を参照ください。
- 地域大国への道程のページへのリンク