ボーア、ニュースを米国へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:23 UTC 版)
「核分裂の発見」の記事における「ボーア、ニュースを米国へ」の解説
ボーアは1939年1月7日に「第5回理論物理学に関するワシントン会議」に出席するためアメリカへ出発した。フリッシュらの論文が刊行されるまで核分裂について口外しないと約束したはずだったが、太平洋を渡るSSドロットニングホルム(英語版)の船上でレオン・ローゼンフェルト(英語版)と核分裂のメカニズムについて議論した上、その情報を秘密にするように告げ忘れた。1月16日にニューヨークに到着すると、フェルミと妻のラウラ(英語版)、1934年から翌年までボーアの研究所のフェローだったジョン・ホイーラーに迎えられた。たまたまその夜に行われたプリンストン大学のフィジクス・ジャーナル・クラブの会合において、ホイーラーに何かニュースがないか聞かれたローゼンフェルトは核分裂のことを話してしまった。焦ったボーアはマイトナーとフリッシュの優先権を裏付ける手紙を急いで『ネイチャー』誌に書き送った。ハーンはその手紙に自身とシュトラスマンの仕事が言及されているにもかかわらずマイトナーとフリッシュの名しか出ていないことに気を悪くした。 新発見のニュースはすぐに広まり、科学的に(ことによると実用的にも)大きな可能性を秘めたまったく新しい物理効果だということが正しく受け止められた。コロンビア大学からプリンストンに来ていた物理学者、イジドール・イザーク・ラービとウィリス・ラムの二人はニュースを持ち帰ってフェルミに伝えた。フェルミにとってはひどく困った知らせだった。ノーベル賞の受賞理由の一つである超ウラン元素の発見が、実際には超ウラン元素とは無関係の核分裂生成物だったというのだから。フェルミは自身のノーベル賞受賞スピーチに脚注をつけてこの効果に触れた。ボーアはフェルミに会うためにプリンストンからコロンビアに直行した。研究室にフェルミが不在だったため地下のサイクロトロン施設に向かったボーアはハーバート・L・アンダーソン(英語版)と行き会い、肩をつかんでこう言ったという。「君、物理で起きた新しいワクワクすることを教えてあげるよ」
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