ホセ・マヌエル・フエンテとは? わかりやすく解説

ホセ・マヌエル・フエンテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/29 09:50 UTC 版)

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はフエンテ第二姓(母方の)はラバンデスです。

ホセ・マヌエル・フエンテ・ラバンデラ(José Manuel Fuente Lavandera、1945年9月30日-1996年7月18日)は、スペインオビエド出身の元自転車競技選手。

経歴

1969年にプロ選手となる。厳しい山岳コースにおいては決まってアタックをかけたという、山岳スペシャリストとして名を馳せた。

1971年ジロ・デ・イタリア山岳賞を受賞。

1972年ブエルタ・ア・エスパーニャでは、ミゲル・マリア・ラサ、アウグスティン・タマメスといった山岳巧者を徐々に引き離して総合優勝。同年のジロ・デ・イタリアでは、エディ・メルクスと序盤から激しく競り合った。総合成績はメルクスに次いで2位に終わったものの、山岳賞争いではメルクスを退け、2年連続で同レースの山岳賞を受賞。

1973年ジロの山岳賞を3年連続で獲得。ツール・ド・フランスでは、総合優勝のルイス・オカーニャの独擅場となったが、アルプスの山岳越えステージではただ一人、オカーニャに食い下がった。また総合でも3位に食い込んだ。またツール・ド・スイスでは総合優勝を果たしている。

1974年のブエルタでは、ポルトガルジョアキン・アゴスティーニョ、ラサ、オカーニャと終盤まで大激戦を演じたが、第10ステージで総合首位に立って何とかそのまま押し切り、2度目の総合優勝を果たした。ちなみに総合2位のアゴスティーニョとはわずか11秒差だった。またジロでは4年連続の山岳賞を獲得した。

しかしながら、翌1975年以降、腎臓に難を抱えるようになったことから、1976年限りで引退を余儀なくされた。1988年、クラスチームの監督に就任するも、持病の腎臓病が原因でわずか1シーズンで退任。その後まもなくして長い闘病生活を強いられるようになったが、1996年7月18日、50歳でその生涯を閉じた。

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