ホセ・マヌエル・フラド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 03:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はフラド、第二姓(母方の姓)はマリンです。(Template:スペイン語圏の姓名) | 
     
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      RCDエスパニョールでのフラド(2017年)
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| 名前 | ||||||
| 本名 |  ホセ・マヌエル・フラド・マリン José Manuel Jurado Marín  | 
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| ラテン文字 | JOSE MANUEL JURADO | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |   | 
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| 生年月日 | 1986年6月29日(35歳) | |||||
| 出身地 | サンルーカル・デ・バラメーダ | |||||
| 身長 | 176cm | |||||
| 体重 | 72kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF (OH), セカンドトップ | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| ユース | ||||||
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 2003-2006 |   | 
    95 | (13) | |||
| 2005-2006 |   | 
    3 | (0) | |||
| 2006-2010 |   | 
    88 | (10) | |||
| 2008-2009 |  → | 
    35 | (9) | |||
| 2010-2013 |   | 
    46 | (3) | |||
| 2012-2013 |  → | 
    18 | (3) | |||
| 2013-2015 |   | 
    48 | (11) | |||
| 2015-2016 |   | 
    27 | (0) | |||
| 2016-2018 |   | 
    60 | (3) | |||
| 2018-2019 |   | 
    17 | (1) | |||
| 2019 |   | 
    0 | (0) | |||
| 2019-2020 |   | 
    15 | (0) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 2001-2002 |   | 
    5 | (1) | |||
| 2002-2003 |   | 
    16 | (6) | |||
| 2004-2005 |   | 
    8 | (2) | |||
| 2006-2009 |   | 
    18 | (5) | |||
|  1. 国内リーグ戦に限る。2021年9月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj  | 
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ホセ・マヌエル・フラド・マリン(José Manuel Jurado Marín, 1986年6月29日 - )は、スペイン王国アンダルシア州カディス県出身のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィルダー、セカンドトップ、左ウイング。
経歴
レアル・マドリードのカンテラで育つ。「ジネディーヌ・ジダンの後継者」「カンテラのジダン」と謳われ期待されていた。Bチームのレアル・マドリード・カスティージャでは数年主力選手として活躍。アルバロ・アルベロアや、ロベルト・ソルダード、ファンフラン、ディエゴ・ロペス等とBチームの黄金期を築き、2部リーグへ昇格させるなど攻撃の中心として活躍した。
また、ユース世代のスペイン代表を経験しており、2003年にはU-17欧州選手権で準優勝しU-17世界選手権に出場、準優勝した。なお2005年のワールドユースは、カスティージャで昇格争いをしていたため他のチームメイトと共に参加しなかった。U-21代表ではの主力選手であった。
しかしながら他のカンテラ出身の選手たちと同様、「銀河系軍団」と呼ばれたトップチームではほとんど出番を与えられることは無かった。2006年8月に同じマドリードを本拠とするアトレティコ・マドリードに移籍金300万ユーロの4年契約で、2年後に600万ユーロで買い戻せるオプション付きで移籍した。カンテラで育てた有望な若手を、よりによって隣のライバルチームに移籍させるレアル・マドリードの手法はメディアの注目を惹き、物議を醸した。
この移籍は、当時チームのスポーツディレクターを務めていたプレドラグ・ミヤトビッチが会長の休暇不在中に成立。その話を耳にした当時の会長ラモン・カルデロンは急いでチームへと戻り、アトレティコ側との会談を取り付けた。そして最初の条件は維持し、新たに、
- 「最初の2シーズン、フラドをベルナベウでプレーさせた場合アトレティコに罰則が課されること。」
 - 「契約期間の4年の間にフラドを移籍させる場合、レアル・マドリードに優先交渉権があり、まず最初にレアル・マドリードと交渉しなければならない。」というこの2つの条件をなんとか追加させることが出来た。
 
移籍後は両サイドMFの主力である選手が相次いで怪我でいなくなったチーム事情から与えられたチャンスを見事に掴み、レアル・マドリード時代の鬱憤を晴らす切れのあるプレーを見せた。2007-08シーズンは出場機会が減少し、16試合出場にとどまる。
2008-09シーズンは出場機会を求めてマジョルカへレンタル移籍。35試合に出場し、9ゴール9アシストと活躍を見せた。
2009-10シーズンにアトレティコに復帰。不調に陥るチームの中でも好パフォーマンスを披露しレギュラーの座を掴む。
2010-11シーズン、シャルケ04からオファーを受け[1]、クラブや監督のキケ・フローレスは難色を示したものの[2]、移籍を強く希望し[3]、夏の移籍市場が閉まる直前の2010年8月31日にシャルケへの移籍が決定した[4]。
なお、移籍決定前に出場したリーガ・エスパニョーラ第1節・スポルティング・ヒホン戦で1ゴールを挙げ、アトレティコへの惜別弾となった。
シャルケでは同年12月4日のバイエルン戦で先制弾となる初ゴールを決めた。その次の試合となるUEFAチャンピオンズリーググループステージのベンフィカ戦ではラウルが胸で落としたボールから先制ゴールを決めた。チームはグループステージを首位で通過し、ホームで行われた準々決勝インテル戦2ndlegでラウルのゴールをアシストし、チームのクラブ史上初となるベスト4進出に貢献した。
所属クラブ
 レアル・マドリード・カスティージャ 2003-2006
 レアル・マドリード 2005-2006
 アトレティコ・マドリード 2006-2010
- 
   →
 RCDマジョルカ (on loan) 2008-2009
   
 シャルケ04 2010-2013
- 
   →
 FCスパルタク・モスクワ (on loan) 2012-2013
   
 FCスパルタク・モスクワ 2013-2015
 ワトフォードFC 2015-2016
 RCDエスパニョール 2016-2018
 アル・アハリ・ジッダ 2018-
タイトル
クラブ
- アトレティコ・マドリード
 
- UEFAインタートトカップ: 2007
 - UEFAヨーロッパリーグ: 2009-10
 - UEFAスーパーカップ: 2010
 
- シャルケ04
 
- DFBポカール: 2010-11
 - DFLスーパーカップ: 2011
 
脚注・出典
- ^ シャルケ、アトレティコMFに1500万ユーロ - goal.com
 - ^ フラード残留を望むキケ - goal.com
 - ^ フラード、シャルケ移籍を懇願 - goal.com
 - ^ シャルケ、フラードの獲得を発表 - goal.com
 
外部リンク
- ホセ・マヌエル・フラド - BDFutbolによる個人成績 (英語)
 - Jurado - fussballdaten.de (ドイツ語)
 - ホセ・マヌエル・フラド – FIFA主催大会成績
 - Jurado at transfermarkt
 
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