ペイシストラトスからアレクサンドリアまで
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「ホメーロス」の記事における「ペイシストラトスからアレクサンドリアまで」の解説
ペイシストラトスは、紀元前6世紀に最初の公的な蔵書[訳語疑問点]を創設した。キケロは、アテナイの僭主(ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対したソロンのような学者たちも、この仕事に参加した。プラトンのものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子ヒッパルコス(フランス語版)はパンアテナイア祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。 ホメーロスのテクストは羊皮紙もしくはパピルスの巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。エジプトで発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「ソルボンヌ目録255[訳語疑問点]」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した―― 作品を24の歌に分け、イオニアのアルファベット24文字による通し番号を付けたのはヘレニズム時代のアレクサンドリアの文法家たちの仕事よりも前だった。 歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。 最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、アレクサンドリアの文法家たちだった。アレクサンドリア図書館の最初の司書であったゼーノドトス(フランス語版)が作業に着手し、後継のビュザンティオンのアリストパネース(フランス語版)がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだサモトラケのアリスタルコスが『イーリアス』と『オデュッセイア』の注釈を書き、またペイシストラトスの命により確立されたアッティカのテクストと、ヘレニズム時代になされた追加部分とを区別しようと試みた。
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