プロ野球初の没収試合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:58 UTC 版)
1946年にパシフィックの監督に就任した際、戦前に他球団に所属していた選手を入団させたことで、没収試合を経験することとなった。1946年からプロ野球は復活したが戦後の混乱の中で選手契約についても議論が割れていた。具体的にはプロ野球が一時休止になった時点でいずれかのチームに所属していた選手はそのチームに戻るべきであるという意見と、戦後新しくスタートを切るのであるから戦前の所属チームにこだわる必要はないという意見である。 藤本は「戦争が終わって日本も1から出直すのだから、職業野球も1から出直す。よって選手も自由に球団を選ぶべきだ」と後者の考えを持っており(1944年11月にプロ野球が中止されて球団が解散した時に、選手のその後の手当てを何もせずに一方的に解雇したにも拘らず選手の保有権を主張する球団の対応に藤本は不満を持っていた)、戦前巨人に所属していたスタルヒンと白石勝巳、そして戦前阪神に所属していた藤井勇を、巨人・阪神両球団の許可無くパシフィックに入団させた。 これに対して日本野球連盟は「調査の必要もありまたいろんな意見を聞いて慎重に決定する必要がある。それまでは対象になる選手の出場を一時見合わせるように」という全球団に対して通告を出していた。 しかし、上記の理由から連盟の調査は長引き、ファンからも3選手の出場を望む声があがったことで、5月20日のセネタース戦、5月23日のグレートリング戦、5月24日の阪急戦、5月26日のグレートリング戦(いずれも阪急西宮球場)の合計4試合に、白石と藤井の2選手を連盟の許可なく出場させる。これを知った巨人と阪神は日本野球連盟に提訴した。 これに対し藤本は前述の球団の対応への不満に加え、やはり戦前に巨人の選手であった青田昇と前川が阪急と契約し、白石や藤井と同様に試合に出場していたにも拘らず不問に付されている上に、その阪急の球団代表が藤本を批判していたことを引き合いに出して反論した。 その後10月4日に、日本野球連盟は「戦前の所属球団から給与を受けていなかったため、3選手へのパシフィック移籍は了承するが、白石と藤井が出場した5月の4試合はパシフィックの選手である裁定が出る前とみなし没収試合とする」という裁定を下した。また同時に藤本は10月10日から10月18日までの出場停止処分と制裁金200円を命じられた。パシフィックにとっては没収試合を宣告された4試合のうち3試合は負けていたため、没収試合による影響は少なかったが、5月26日のグレートリング戦は7-4で勝利していたため、没収試合で勝敗が入れ替わった。なお、その4試合以後にスタルヒン・藤井・白石が出場した試合についてはパシフィックの選手である裁定が出た後とみなされたため、没収試合とならなかった。 そしてこの没収試合は、巨人の戦後初年度優勝を逃す一因にもなった。この年はグレートリングが65勝38敗2分け(勝率.631)、巨人が64勝39敗2分け(勝率.621)であり、裁定が無ければプレーオフという結果になっていただけに、巨人にとっては間接的に優勝争いのライバルに1勝を献上する形となってしまった。
※この「プロ野球初の没収試合」の解説は、「藤本定義」の解説の一部です。
「プロ野球初の没収試合」を含む「藤本定義」の記事については、「藤本定義」の概要を参照ください。
- プロ野球初の没収試合のページへのリンク