プロミュージシャンとしての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 22:21 UTC 版)
「ビル・モンロー」の記事における「プロミュージシャンとしての経歴」の解説
1929年、モンローは、兄弟のバーチ、チャーリーと石油精製所で働くためインディアナへ引っ越した。そして友人のラリー・ムーア(Larry Moore)と共に音楽グループMonroe Brothersを結成、地元のダンス会やハウスパーティーで演奏した。バーチとラリーはすぐにグループを辞めたが、ビルとチャーリーはデュオとして活動を続け、ついにTexas Crystalsの支援を受け、最初はインディアナ、それからローワ、ネブラスカ、サウスカロライナ、ノースカロライナのラジオ局で、1934年から1936年の間、演奏して生活するようになった。 1936年、RCA VictorがMonroe Brothersとレコーディングの契約を締結した。彼らのゴスペル"What Would You Give In Exchange For Your Soul"はいきなりヒットをとばし、1936年から1938年の間に、VictorのBluebirdのため、60曲をレコーディングした。 1938年にMonroe Brothersが解散したのち、ビル・モンローはThe Kentuckiansをアーカンソーのリトル・ロックで結成したが、たった3か月しか続かなかった。そこで彼はアトランタ、ジョージアに行き、最初のBlue Grass Boysをギター、クロー・ディビス(Cloe Davis)、フィドル、アート・ウートン(Art Wooten)、ベース、エイモス・ギャリーン(Amos Garren)と結成した。 1939年10月、彼はGrand Ole Opryの創設者であるジョージ・ヘイ(George D Hay)にJimmie Rodgersの"Mule Skinner Blues"をエネルギッシュに披露して印象付け、Grand Ole Opryのレギュラー出演のためのオーディションに通った。この曲はモンローがほかの7人のメンバーと、1940年RCA Victorの最初のソロレコーディングセッションの際に録られたものである。この時までに、Blue Grass Boysはギター・ボーカル、クライド・ムーディ(Clyde Moody)、フィドル、トミー・マグネス(Tommy Magness)、ベース、ビル・ウェスブルックス(Bill Wesbrooks)というメンバーになっていた。 速いテンポと楽器の妙技というブルーグラスの特徴は、早い時期の曲にさえ見られるが、モンローは既に、彼のグループのサウンドで、そういった音楽を試行錯誤していたのだ。ちなみに彼は、Victorのレコーディングではリードボーカルをすることは滅多になく、Monroe Brothersでやっていたようにハイ・テナーでのコーラスを好んでいた。 1945年のセッションでは、アコーディオンをフィーチャーしたが、すぐにこれをバンドから外した。 重要なのは、1942年、モンローがバンジョー弾きのディビッド・エイクマン(en:David "Stringbean" Akeman)をBlue Grass Boysに加えたことだ。エイクマンは比較的旧式のスタイルで演奏し、楽器ソロでフィーチャーされることも滅多になかった。 モンローの1946年以前のレコーディングは、彼がやってきた弦楽器バンドの伝統と、次いで起こる音楽的な革新の間でのスタイルの移り変わりを表すものであったといえる。
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