ブルネイの窮状とブルック王国(イギリス)の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:09 UTC 版)
「ブルネイの歴史」の記事における「ブルネイの窮状とブルック王国(イギリス)の成立」の解説
イギリスはオランダとの条約により、マレー半島と無価値と思われていたボルネオ島北部に関する権利を獲得している。しかしながら、イギリスとしてもボルネオ北部の開発に乗り出す積極的な理由はなかった。 ここで、当時はブルネイの領土だったサラワクに1839年に現れた探検家、ジェームズ・ブルックが頭角を表す。彼はシンガポールを「発見」したラッフルズに憧れ、みずから植民地を開きたいと考えていた。ブルネイ側は19世中盤におけるダヤク人(海ダヤク)の北へ、海岸線へと向かう動きに悩まされていた。ダヤク人はそれまで外界と接した経験がなかったためか、奇妙な戦闘集団を結成、ヒトの頭骨を集め始めた。ブルネイ首長はダヤク人との戦闘を恐れ、ブルックに戦いを任せる。 ブルックは沿岸地域に居住していたダヤク人(陸ダヤク)と手を結び、イギリス人の戦死者(頭骨を取られたもの)を1人に抑え、勝利する。ブルネイ王から蕃王(ラジャ)の称号を与えられたブルックは、サラワク王国を建てた。しかしながら、ブルックには領土拡大の意志があり、ブルネイは度重なる戦闘で、国土の大部分を失ってしまう。1867年にジェームズ・ブルックが亡くなると、二代目のチャールズ・ブルックが跡を継ぐ。
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