ブルニ親王の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 06:21 UTC 版)
エジェイはホンタイジの娘を娶わせられ、親王の爵位を与えられて清の皇族として遇せられて、そのまま内モンゴルの中部に留まったチャハル部を領した。しかし、その子で親王の爵位を継承したブルニが1673年に三藩の乱に呼応して反乱を起こし、康熙帝に鎮圧された後、チャハル王家は取り潰された。チャハル部族は解体されてモンゴル人の王家を通さずに清の皇帝が直轄支配する総管旗に再編され、張家口の北の草原でチャハル八旗、チャハル四牧群などが設置された。張北口には清の官僚であるチャハル都統が置かれ、チャハル八旗はその配下として皇帝直属の領民とされる。ただし、エジェイのときにチャハル王家の統括を離れ、皇帝直属のホシューン(旗)となっていたウジュムチン、ホーチト、スニト、アオハン、ナイマンなどのチャハル部の分家はブルニに従わず、そのままダヤン・ハーンの子孫を旗長とする遊牧部族として続く。
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