ブラウ作戦の結果と敗因・その後への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 15:50 UTC 版)
「ブラウ作戦」の記事における「ブラウ作戦の結果と敗因・その後への影響」の解説
ブラウ作戦は立案時よりヒトラーが深く関与していた。「総統は作戦会議中、提示した作戦に反対する将軍たちに激怒し、地図のカフカースとスターリングラードに拳をつきつけて“この作戦を支持するか?”と聞いた」(フランツ・ハルダーの証言)。ヒトラーは自分の根拠のない直感と自論の“戦争経済”だけをもとに作戦を推し進め、ソ連軍を侮って自軍を過大評価していた。たとえば6月頃に諜報機関から“ウラル山脈周辺の工場から大量の戦車が貨物列車で送られている”という情報がもたらされていたが、ヒトラーはこれを黙殺している。[要出典] さらにヒトラーは乱命を繰り返した。苦戦するA軍集団を支援するためにB軍集団から装甲師団を引き抜いたため、スターリングラードにはまず第6軍のみが到達し、予定より三週間も遅れて第4装甲軍が着くのを待って突入が開始された。この間にスターリングラードには多くの陣地が作られ、撤退してきたソ連軍部隊が集結していた。A軍集団の指揮権を剥奪し、自ら指揮したことも部隊を混乱させている。最も悪い結果をもたらしたのはスターリングラード死守命令であり、第6軍のパウルス将軍もそれを遵守したため、第6軍は脱出も降伏も不可能となった。その結果、約30万のドイツ・ルーマニア・ハンガリー兵と約50万のソ連兵、そして一般市民を合わせて100万人以上が犠牲になっている。ドイツ軍は多くの精鋭師団を失い、東部戦線の主導権がソ連軍に移っていくという事態を招いた。さらにブルガリア、ルーマニアなどの同盟諸国からの信頼も失ってしまった。(もっともこの後、マンシュタイン元帥の指揮によって第三次ハリコフ攻防戦に勝利し、一時的にではあるが東部戦線を維持することはできた) 一方でソ連軍はバルバロッサ作戦当時とは異なり土地に固執せずに戦略的撤退を行ったためドイツ軍による大規模な包囲殲滅が発生しなくなった。最終的に温存されたソ連軍の戦力がスターリングラード防衛に集中的に投入され、逆にスターリングラードに固執したヒトラーが死守を命じたため第6軍が包囲殲滅される結果となった。 この作戦はドイツ軍にとって人的被害が極めて大きく、この後はそれまで兵役を免除されていた熟練工や工場労働者も前線に動員されるようになっていった。これは国内の軍需生産率が悪くなっていった原因のひとつであった。
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