フルマラソン挑戦
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フルマラソンは2010年1月31日の大阪国際女子マラソンが初マラソンだった。23km付近から日本人トップで3位の小崎まり(ノーリツ)等の先頭集団から遅れたものの、2時間27分台の6位に入った。2度目のマラソンは2011年1月30日の大阪国際女子マラソンに2年連続で出場したが、30kmを過ぎて優勝した赤羽有紀子(ホクレン)らについていけず再び失速、5位に留まった。
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フルマラソン挑戦
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フルマラソン初挑戦は、国士舘大学の卒業記念として出走した1991年の名古屋国際女子マラソンで、まだ結婚する前の事である。レース終盤は極度の疲労と空腹感に悩まされて、途中歩いてしまいながらもなんとかゴールにたどり着いた。2回目のマラソンは、それから7年が経った1998年の初マラソンと同じ名古屋国際女子マラソンだった。30km地点までは先頭集団のスローペースに余裕でついたが、その後、当時の日本最高記録を達成して優勝した、高橋尚子の猛烈なスパートには全くついていけなかった。それでも初マラソンのタイムを20分以上短縮する2時間28分台をマークし、3位に食い込んだ。 1999年8月の世界陸上セビリア大会10000mで日本女子最高の順位と、同年10月の日本選手権優勝の実績により、翌2000年シドニーオリンピックの女子長距離トラック種目の内定代表に、日本陸連から打診を受ける。しかし世界陸上では4位とはいえ、3位の選手とは1分近くの差が有り、世界と互角に戦うならフルマラソンしか無いと判断した弘山は、五輪内定を辞退。あえて女子マラソンの種目で、シドニー五輪へ挑戦する事となった(長距離種目の内定を貰いながらのマラソン挑戦は認められなかった。弘山の辞退により、世界陸上5位入賞の高橋千恵美が繰り上げで五輪内定となった)。
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