フタ・ピェニャツカの大虐殺
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「第14SS武装擲弾兵師団」の記事における「フタ・ピェニャツカの大虐殺」の解説
1944年の冬から春にかけて、師団はウクライナ西部でポーランド人村落を破壊した。1944年2月23日、師団所属部隊のうち(第4、第5連隊とされているが、1944年5月まで訓練を行っていた)2つの部隊が、ユダヤ人の隠れ家で、またポーランド国内軍、共産ゲリラの本拠地フタ・ピェルニャツカでポーランド国内軍、および赤軍パルチザンの掃討活動に参加した。先に部隊から分遣されていた兵士のうち二名が襲撃を受けていたこともあり、フタ・ピェルニャツカでは大虐殺が発生、村は破壊され、500から1,200名が殺害されたとされるが、資料によって説明は異なっている。ポーランド側の情報によると、村人らは逃げようとしたが、情け容赦なく納屋に閉じ込められ、焼き殺されたとしている。ウクライナ国立学士院歴史研究所によれば、師団の第4、第5連隊は実際に村の中で住民を殺害したと結論付けたが、ポーランドにおける目撃者の主張は「信じることは疑わしい」と付け加えている。 ポーランド国内軍が毎週公表していた資料、「赤色の土地公報 Biuletyn Ziemi Czerwienskiej」の1944年3月26日付第12号によれば、ピドカーミニ、ブロディでの戦いの間、捕虜となったガリツィア師団の将兵200名はソ連の赤軍に連行されたとしている。彼等は2週間前にフタ・ピェニャツカでポーランド住民の殺害に参加しており、その中に捕虜であった赤軍将兵が含まれていたという容疑で、ズバーラジュ城で射殺された。 フタ・ピェニャツカにおける例を除けば、ウクライナ西部からポーランドにおける民族浄化において目立った行動は記録されていない。 1944年3月2日、師団内の広報誌においては、ウクライナの青年に向けられる記事が師団長によって書かれた。そこには、ポーランド人、ウクライナ人の殺害行為はソビエト連邦によるものとされており、さらに「とてつもないそのような非人道的行為を行った人々がウクライナで見つかったならば、彼等は永遠にウクライナから追放されるであろう」と述べられていた。
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