フジタ/ベルマーレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:57 UTC 版)
1981年から、フジタ工業(現フジタ)に移る。日本サッカー協会専務理事などを務め、1993年のJリーグの設立にかかわっている。在任中、1995年ネルシーニョの日本代表監督内定騒動いわゆる「腐ったミカン」事件にも絡んでいる。 1997年6月、フジタの子会社にあたるJリーグ・ベルマーレ平塚社長に就任した。この時期チームは黄金期を迎え、1998年フランスW杯には小島伸幸・洪明甫・中田英寿・呂比須ワグナーと日韓合わせて4人の代表選手を輩出、Jリーグ上位に常にいるチームであった。1998年中田のACペルージャ移籍にも尽力する。ただこの間、親会社であったフジタの経営不振がチームに影響を及ぼしていた。 1998年末、フジタが経営の建て直しを図るためベルマーレへの出資を減らしたことから、運営費を減らすため主力選手のリストラを決行する。結果、小島・洪・呂比須・名塚善寛・田坂和昭・公文裕明と次々と主力が移籍し、1999年J1で年間成績最下位となりJ2に降格、同年フジタも私的整理(任意的倒産処理)を行ったことから一時はチーム存続の危機が囁かれた。この間、重松はチーム存続のために動いている。 詳細は「湘南ベルマーレ#歴史」を参照 2000年、フジタが累積赤字を解消する代わりに運営から完全に撤退し、新たに会社に移して「湘南ベルマーレ」にチーム名改称、ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新する。会長に河野太郎、社長に小長谷喜久男が就任した。重松自身は新会社に籍を移らず退任している。 同時期に横浜フリューゲルスが親会社の経営不振からクラブ消滅にまで発展したことから、ベルマーレはJリーグクラブの成功例の一つとして見られている。重松は後に、この「10億円経営」「収入ありき」の経営スタイルを先んじて行ったことで他のJリーグクラブから相当感謝されたとコメントしており、その一方で身の丈経営によってJリーグのマーケットバリューが落ちてしまったことをマイナス面と捉えている。
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