フジタ / ベルマーレ平塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 08:42 UTC 版)
「岩本輝雄」の記事における「フジタ / ベルマーレ平塚」の解説
横浜商科大学高等学校卒業後の1991年、フジタサッカークラブに加入。高校時代まではミッドフィールダーだったが、同年7月にニカノールヘッドコーチによって左サイドバックにコンバートされた。元々、左サイドバックを務めていた名良橋晃を右サイドに移した上での起用となったが、当時の岩本は左足の確かな技術を有する一方で、守備については不安視をされていた。一方、ニカノールは「カバーリングと1対1で負けないこと。それだけ気をつけておけ」と岩本を後押ししたという。 加入初年度から出場機会を得ると1991-92シーズンのJSL2部では22試合に出場し、7得点を記録。チームがJリーグ参入を逃したため1992年夏からはジャパンフットボールリーグでのプレーとなったが、右サイドバックの名良橋と共に両サイドが高めのポジションを取ることでチームを牽引し、Jリーグ昇格に貢献。この当時のチームは「湘南の暴れん坊」と称された。Jリーグ昇格後の1994年、NICOSシリーズ躍進(最終的には2位)の原動力となり、その活躍が認められ日本代表に選出された。同年、天皇杯優勝。 1995年、短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失った。さらにリーグ戦では左膝靱帯を傷めたため靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった。
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