フォリナー結成前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:03 UTC 版)
ルーは、ニューヨーク州ロチェスターで、歌手のニッキ(マセッタ)と、バンドのリーダーでありトランペット奏者のベニー・グラマティコの息子として生まれた。彼はロチェスターのゲーツ・チリ・ハイスクールを1968年に卒業、その後ロチェスターのモンロー・コミュニティ・カレッジも修了している。 ルーは、10代半ばから音楽活動を始め、セント・ジェームズ・インファーマリー(後にジ・インファーマリーに改名)やPHFFTなど、ロチェスターの地元のバンドでプレイした。後に、地元バンド、プーア・ハートでハーモニーヴォーカルを歌っている。ルーは、ヴォーカルやドラムの演奏を続け、最終的にはバンド、ブラック・シープのフロントマンとなる。ブラック・シープは、クリサリス・レコードと契約した最初のアメリカのバンドであり、1973年に最初のシングル「スティック・アラウンド」をリリースしている。ブラック・シープは、もともとナイアガラ・ストリートやヘーテル・アベニューのマックヴァンなど、ニューヨーク州ロチェスターやバッファローのナイトクラブで演奏していた。これはすぐに小さな成功を得、ブラック・シープは、キャピトル・レコードと契約して、『ブラック・シープ』 (1974年) と『インコーラギング・ワーズ』 (1975年) の2枚のアルバムをリリースし、これも成功した。彼らは、1975年のクリスマスイブにキッスの前座を行うが、ショウの終了後、ニューヨーク州高速道路で機材を積んだトラックが氷によって倒れる事故が起こり、バンドは機材車だけでなく機材の85%を失い、ツアーを中止する。そして、ライヴでアルバムの費用を得ることができず、ブラック・シープは解散に至った。トラック事故からほどない1976年初頭、スプーキー・トゥースとしてロチェスターで公演していたミック・ジョーンズに会う機会を得たルーは、ブラック・シープのファーストアルバムをミックにプレゼント。新しいバンドのリードヴォーカリストを探していたジョーンズはルーに注目し、オーディションを経て彼を招き入れた。
※この「フォリナー結成前」の解説は、「ルー・グラム」の解説の一部です。
「フォリナー結成前」を含む「ルー・グラム」の記事については、「ルー・グラム」の概要を参照ください。
- フォリナー結成前のページへのリンク