フェミニストとしてのバティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 18:56 UTC 版)
「トマス・バティ」の記事における「フェミニストとしてのバティ」の解説
バティはセックス嫌いで生涯独身を貫いた。また、彼がイギリスで1916年から1940年にかけて、エスター・ローパーやエヴァ・ゴア=ブース(英語版)らとともに年3~6回でフェミニズム雑誌『ユーレイニア』(Urania、200~300部)を発行していたことからも示されるように、バティは筋金入りのフェミニストであった。 そして、バティ自身、母親と妹を伴って来日し、間もなく母親を亡くした後、日本で妹に身の回りの世話をしてもらいながら残りの生涯を送る(妹は1944年に日本で死亡)、という中性的な人物であった。 この事からピーター・オブラスは、「バティの日本への情熱の一つの理由は、男女のアイデンティティーのとらえ方と実際とが日本においては自由であった一方で、イギリスでは、女系家族の理念…ヴィクトリア時代の若者たちにおいては男性と女性は極めて自由に混淆し、女性は男性に従属していなかった…から離れつつあったからである、と見ることもできるかもしれない」と指摘している。
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