ピアニストとしてのカムバックと暴漢事件
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「ジョアン・カルロス・マルティンス」の記事における「ピアニストとしてのカムバックと暴漢事件」の解説
その後は音楽やスポーツ関係のプロモーター、銀行業や建設業を転々としたが、再びピアノを弾きたいという思いが強くなり、懸命のリハビリに取り組む。1978年にはバッハの『平均律クラヴィーア』をカーネギー・ホールで演奏してカムバックを果たしたが、復帰公演はチケット完売の大熱狂ぶりだった。1979年から1985年にかけて、マルティンスはコンコード・コンチェルトとレイバー・レコーズ (Labor Records) から、バッハの鍵盤楽曲全てを録音して発表した。コンコード・コンチェルトから出された20枚組のバッハ鍵盤楽曲完全収録盤は、ひとりのピアニストによって成し遂げられたバッハコレクションとして世界最大級であり、好意的な批評が数多く寄せられたという。 マルティンスは神経損傷からくる後遺症に悩まされ続け、1985年にも演奏活動を停止するが、1993年までに復帰し、収録とコンサートへ精力的に取り組む。 1995年、マルティンスはツアーで訪れていたブルガリアで2人の強盗に襲われ、鉄パイプで殴りつけられて頭蓋骨から大脳まで至る大怪我を負う。マルティンスは再び右腕の自由を失ったが、新しいバイオフィードバック療法など多数の手術を受けて、1996年にカーネギー・ホールでアメリカ交響楽団との再復帰公演を行った(この時はモーリス・ラヴェルとヒナステラの楽曲を演奏した)。アメリカでの演奏は1985年以来実に11年ぶりのことだった。 更に不運なことに、2000年はじめに受けた手術が失敗し、マルティンスは右手の自由を失う。左手と右手の指1本のみしか使えなくなったマルティンスは、翌2001年にラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』を収録し、この曲を引っ提げて海外ツアーも行った。ところが今度は左手にデュピュイトラン拘縮や局所性ジストニアが現れ、遂にピアニストとしての演奏生命を断念することになる。
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